Difficulty

通称・上がり框古本市に2回訪れていただき,7月の土曜日にも来てくださった方。近所にお住まいのようだけれど,やりとりをしていると,私には長年なじみの疾患を抱えた方のような感触。前2回のときは少し感じただけだったけれど,今週末にいらしたときはその強さは久しぶりの感触だったので少し引いてしまった。

自分で頭髪を脱色中に手を黒くしたままいらして,そのまま上がり込む。まあ,最初のときは上がり框以外にも並べていたので,そのまま応対すると,田舎に帰ってこられたこと,父親のお墓が兄によって移されてしまったこと,若い頃,神社の警備のアルバイトをしていて,ある神社を訪れると感動すること,新型コロナ(マスクせずにいらしたあたりで,少し対応を変えればよかったと反省した)は人類への警鐘で高齢者は亡くなればよい,という一方,戦時中から戦後,この国の先達ががんばったから今のこの国があるということ。話に脈絡はあまり感じられないものの,一つひとつは率直に感じていることなのだろう。そのうち,作り話が少しずつ増えてくる。最近の症状はこのような感じなのかと,さすがにこのあたりになると気づく。

これが症状なのかどうか,私にはわからない。ただ,脈絡がとらえられず,感情の起伏の激しさを目の前にすると,どうも症状のような気がする。話題を類型的なものとして(なんだか聞いたことのある話だなという按配に)受け取ることもできるかもしれない。

このままどうしようかと思っていたあたりで,那智君が遊びに来てくれる。あがってもらうと,そのお客さんは用事があると言い出して,「本を買いに来たのだから見せて」といってくる。傍目にも調子がよくない様子になってきたので,選ばれたあたりの本を少し整理して2,000円を超える本を買っていただく。差額がカットして2,000円に。「本を買いに来たんだから」というのは必殺の一言だった。その前のやりとりや,その途中のやりとりも雲散してしまう。調子がよくないときに,本を買いに訪ねてくださったのだ。でも,次に出てくる言葉は「しかたない」だな。

正直,このお客さんへの対応はいまの私には荷が勝ちすぎる。以前ならまだしも,この年になると,どうも短絡的に話をまとめてしまう。ときどき話を聞いてほしいような感触を受けた。話を聞いていると,穿ったような目になる。穿つなら,そこで話を終えればよいのだろうに,さらに話は続く。

本を袋に入れて,次の用事の住所を言い,向かうべき方角を尋ねてくる。場所を確認するときも一悶着だ。初手から私が伝える方向でないという。そこで,お客さんの気に入る方向を伝えることはできたけれど,それはしたくなかった。道路に出て,iPhoneのマップで場所を見せ,何度か同じことを伝えると,ようやく納得してそちらに向かった。

しばらく那智君と話して,店を閉めた。このタイミングで徹からメッセンジャーで連絡が入る。さっき起きたことを伝えると,「君はそういう人を呼ぶなあ」と一言。確かにそうだ。私もそう思う。「本より,君を気に入っているんじゃないか。話を聞いてくれるので」。そうかもしれない。

路上ではなく,事務所の一部で店を開くとすると,この手の出会いが起きてもおかしくない。いや,症状(かどうかわからないが)とまではいかなくても,このお客さんにかなり似た人がふつうに暮らしていて,古本屋に入ってくることだってあるに違いない。他の古本屋の方はどう対処しているのだろう。

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