土曜日は,先のエントリーに書きとどめたことがなんともこたえた。
昼前に一度,カートを取りに事務所に行き,本を積んで戻る。那智君は13時過ぎにくるとのことで,持ってきた本を整理していると先のお客さんの一件。とりあえず終わり,この後,ワクチン接種に行く那智君と時間まであれこれ話す。15時過ぎに家に戻る。疲れてしまったので2時間ほど眠る。起き出して仕事を少しだけ。家内と夕飯をとり,1時過ぎに眠る。
日曜日は宅急便に起こされる。食事をとり,身支度をして事務所に本を持っていく。昨日同様,整理していると家内がきたので,そのまま吉祥寺まで買い物に出た。ゲイシャコーヒーの店で軽く昼食をとり,私はよみたやに,家内は服をみる。と,よみたやまでの間に急に雨,霰。1,2分路上を渡るだけで濡れてしまう。雨宿りをかねて本を眺める。50円棚から2冊購入。しばらく店内を眺めていると,雨が上がる。丸井まで戻り家内と合流。アトレの地下にできた喫茶店で休憩し,その後,書店で本を見て,少し休憩。家内と落ち合い,夕飯を買って帰宅。
「群像」が「ケア」の小特集だというので,立ち読み。このところの「ケア」への関心は,こんなふうにされてしまうのだなと思う。ケアの意味をケアの場にいる人がみずから伝えるのではなく,よいように解釈されるばかり。武谷三男が解釈嫌いだった理由はこのような風潮を敏感に汲み取ったからなのだろう。ギリガンは登場してもヘンダーソンは一言も出てこない。フェミニズムの文脈で看護(や介護)がその提供者の言葉を通して語られることはいまだほとんどない。まだ,米国の看護研究者のほうが,そうした言葉を発信していて,わが国では,勝手な解釈のなかで,出遅れた社会党のような立場に置かれているのではないか。
ケアワークをアンペイドワークの視点で切り取った上野千鶴子の功罪はいまだ尾を引いていると思う。あれはプロセスであって,その後にフラットなパースペクティブを見据えるためのものだったはずなんだけれど。