花粉症の時期となり,とりあえず寝る前の薬を飲み続けて1週間ほど。舌下免疫療法の効果はどうなったのかよくわからない。妙なことに,飲み始めて数日は高齢の「副作用:悪夢」を見ることがなかった。それがここ数日,悪夢続きだ。副作用も平常運転になったようだ。
一日,事務所で仕事。POPや本を発送しに運送会社や郵便局で行くのは運動代わり。積み残しの仕事が少なくなってきたので,伸浩がもってきた期限切れの缶チューハイを1本。アルコール度数7%というのはなかなかきつく,2/3ほどで眠くなってしまった。残りを流しにあけて帰宅。家内と夕飯をとる。
昼は川向うのあんぷら屋に入り,カキフライが乗ったカレー。染の小道のときに入るくらいだったけれど,ときどき入ることにしよう。
ブックオフの均一棚で見つけた生島次郎『浪漫疾風録』(中公文庫)を半分少しまで読み終えた。椎名誠の『新橋烏森口青春篇』と似た印象。時代は違うのだけれど。あと,中島らものあの本か。
で,思い出した。坂口尚『石の花』1を買ったのだった。B5判でまとめられた迫力ある仕立て。新潮社ハードカバーと同じく5巻本らしく,B5判で揃えて,ハードカバーは整理しようかと思いながらページを捲る。
技術と表現の問題はいたるところで起きている。先に音楽でそれはおきたような気がする。矢作俊彦がアニメーションについて,フルアニメーションとストップアニメーションを比較して,どこまで見せるかという視点で,フルアニメーションの限界について語ったことがある。つまり毛穴まで描いたフルアニメーションが「面白いか」というと結局,それは面白さを左右するものではないということ。ストップアニメーションであっても受け手にとってはその解像度だから理解できる作品というものがあるということではないか,ざっくり括ってしまうと。
今回刊行された『石の花』は原画をスキャンし直し,レタッチしたものだそうだ。その作業でリリースするのには,デジタルフォーマットのほうがふさわしいのではないかと,購入した本を眺めながら考えた。
つまりドットで潰していく(という表現が妥当なのかわからないが)印刷データの特性が刷り上がりに影響するのではないかということだ。写真製版ではなく,CTPで刷版をつくる現在の印刷工程が抱える問題といえばよいのか。品質として高低がつくものではないとは思うものの,写真製版時の焼き時間の加減などで,線がシャープに刷り上がったりぼってりとして刷り上がったりする違いを感じていた目からすると,CTPの刷り上がりはシャープに感じられない場合が少なくない。『石の花』も漫画ではなく,原画を再現していくコンセプトとして見たほうがよいのではないだろうか。
石森章太郎は版面の1.5倍の用紙に原画を描いたと永井豪が語っている。つまり,1.5倍の大きさを縮小して緻密に見せるという手段をとっていたのだ。石森章太郎にとって原画が最終着地点ではない。ざら紙に特色で印刷されたものを見据えて描いていたと思われる。要はどのように印刷されるか,だ。
複製芸術としての漫画を考えるとき,そうした向き合い方をどこか前提とする必要があるのではないだろうか。近年,漫画原画の複製で単行本を作る企画があるものの,それらは漫画ではなく漫画原画として眺める本だととらえたほうがすっきりする。