いなかのじけん

まずは煩雑にすすんでいた仕事について,整理できつつあるように思う。豆腐のしぼり汁ににがりを入れかき混ぜているような感覚だ。

昼は近くの中華料理店で済ませる。最初はツイッターから,昼食時のテレビでも,元首相が凶弾に倒れたとの情報が続く。新刊の表紙に用いる絵画データを手に入れるため検索しながら,TBSラジオを聴く。いや,反対だ。ラジオを流しながら検索を続ける。ワシントンのナショナル・ギャラリーのサイトでデータを見つける。ダウンロードしてデザイナーに依頼。

昨年夏の件で,先生宛に迷惑電話とでも言い得る連絡が入ったそうだ。「いくぢなし」よろしく,思い出に留め,これからについては何らかの責任を負われる必要はないと思う旨,お伝えした。

18時に吉祥寺で家内と待ち合わせているため,事務所を出る。アトレからパルコ,コピスを回り,買い物。コピスの地下でよい出物があったので購入した。夕飯を買ってから帰宅。

学生時代,ナチスの優生保護法について文献を検索していたとき,ナチスの政治理念にもとづけば優生保護法は語弊があるものの理にかなっていること。優生保護法を批判し,否定する場合,ナチスの政治理念を批判,否定することからはじめないと,妙な横やりが入るように感じた。アウトバーンの「価値」を冠がるときに,ナチスの政治理念と切り離して考えてはならないということも同様に。

第二次安倍政権の経済政策について,この24時間で,結果(なのだろうか)から価値づけをするつぶやきや書き込みを目にする。どのような理念をもった政党であろうが財政出動策を立て,実行することはできるだろう。積極財政を願うがゆえに,理念さておきのメッセージのようにそれらは伝わってしまうのではないだろうか。復古主義の理念をもつ政治組織が積極財政策と提案し,実行したとき,財政策を支持する人々は復古主義に絡めとられてしまいはしないだろうか。

第二次世界大戦中の科学者や技術者が国に動員されてしまった原因について,武谷三男は技術論の視点から整理(というか提言)している。積極財政はたとえるなら,これは技術学であり,それを可能にする技術論が必要であるにもかかわらず,現在,技術学に話は終始しているように感じる。そのことに危機感を覚えるのだ。技術学の声高な喧宣は,結局,理念なき動員に陥るのではないだろうか。

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