いなかのじけん

初校出稿が遅れ気味。今週末には入稿原稿を揃えてしまわないと。

午前中は編集をお願いしている方とDTP担当者とで単行本の打ち合わせ。こちらの企画も刊行のめどがついた。8月に刊行がまとまってしまいそうでまずい。少しばらさないと。午後は注文書籍の発送とデザイナーとのやりとり。夕方から印刷所に行き,校正のチェック。帰りに池袋で降り,夕飯用にお弁当を購入して帰宅。暑さは少しおさまってきた一方で,雨と湿気が非道い。

アベノミクスの名のもとに実施された経済政策について,その是非を問う言説を目にする。首相の名を冠した政策から,その技術のみ取り上げて検証することに圧倒的に欠けるのは,その技術を実施した(できた)環境への視座だろう。

こうすれば,こうなる。そこまでは技術学だ。学問としての技術学には,しかし,その技術が実施可能になるための技術論=技術を可能にする原理・原則が欠けている。

アベノミクスを継続せよというメッセージには,アベノミクスを実施した体制に倣えというメッセージがついてまわる。結果としてアベノミクスを実施した実体をモデルとするしかあるまい。技術だけを持ち上げて,実施した実体はどうであっても実施可能であるというのでは,あまりに技術へのまなざしが空虚のような気がする。

時の首相と取り巻きでなければ,アベノミクスを実施できなかったとすれば,アベノミクスをいま評価し,継続せよという場合,さらに,歴史上,わが国ににおいてそれ以外の首相と取り巻きでは実施できなかったというのなら,なおさらにその手法(これはアベノミクスの技術学ではなく技術論だ)をまねるのが一番ということになりはしないだろうか。

アベノミクスを評価するメッセージに技術論が欠けていることの危うさと,なんだか感じてしまうのだ。アウトバーンを例にあげてナチスの政策のなかにはよいものがあったということと,それは同じなのだ。

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