加藤和彦

北山修が自切俳人と名乗り,オールナイトニッポンに出ていた頃,深夜放送を私は聴き始めたのだと思う。数年の差が原因だと思うけれど,私の世代は北山修や加藤和彦についてほとんど知らないし,関心がなかった。昭和50年代が始まったあたりの,ガラガラと世の中が変わっていく速度のなかで,昭和40年代はただただ古臭いものとしてのみ認識していた気がする。

長く探した北山修のアルバム『12枚の絵』(オールナイトニッポンの最終回で演奏された「夢」や「北の海の道」が収められている)に加藤和彦との共作「旅人の時代」が入っていて,このアルバムを手に入れたのはいつのことだったか覚えていないが,それでも初めて聴いたときの不思議な感触を覚えている。

昭和50年代を折り返す頃,弟がCMソング「絹のシャツを着た女」のシングル盤を買った。上田知華+KARYOBINの「パープル・モンスーン」あたりがCMソングとして流行っていたのだったと思う。シングルでCMソングを買って聞くことがそれほど不思議ではなかったのだ。北山修はそのことを批判的に歌にしていたのだけど。

最初に買った加藤和彦のソロアルバムが『うたかたのオペラ』で,次に『ベル・エキセントリック』を手に入れ,『あの頃,マリー・ローランサン』からリリースに追いついた。昭和50年代の加藤和彦は,どこか石森章太郎に似たイメージがある。すごいのだけれどもメインストリームでは平たく言ってしまうと人気があまりない。まったくない,のではなく,あまりないというあたりが,ファンとしてもどかしかった。

流行は月単位で変わっていった。そこに腰を据えた活動をするミュージシャンはいたし,メディアはそうしたミュージシャンを取り上げることで売り上げを確保できた。その中で加藤和彦も石森章太郎も昭和50年代を折り返す頃になると,ネームバリューと人気の乖離が起きた。石森章太郎の人気は,彼が描く線に魅力を感じられなくなったことが原因だと思う。もちろんそれは一過性のもので,いまにしてみると当時の石森章太郎の線は魅力的だし,ただただ同時代的な変化にはついていかなっただけのことだ。加藤和彦については,声なんじゃないかと思う。

3部作リリースの際にコンサート活動をまったくしなかったのは原因の一つだと牧村憲一さんがラジオで語っていて少し腑に落ちた。さらに言うと,加藤和彦のボーカルスタイルの変化に(人気が出なかった)理由があるのではないかと思う。

三部作以降,前のエントリで書いたように,ボーカルスタイルに変化があった。デヴィッド・ボウイもブライアン・フェリーも低音を響かせるようになったのが昭和50年代を折り返してからのことだ。ジョン・レノンの新作は(当時は)望めない。「ベル・エキセントリック」までの加藤和彦のボーカルスタイルが人気を博すような外部環境はほとんどなかった。数年後,モリッシーをはじめとするボーカルスタイルでも人気が出てくるようになるのだけれど,加藤和彦は昭和50年代の後半,低音を響かせることに舵を切ったのだろう。デヴィッド・ボウイやブライアン・フェリーがそうしたように。

ネオアコをバックに高音を響かせる加藤和彦の歌を当時,聴きたかった。

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