熱中

夕方家内と吉祥寺で待ち合わせるため,事務所を出た。数人の人だかりが見える。「救急車」「ムダ」あたりのやりとりが聞こえてくる。70代くらいの高齢男性を同じくらいの年の女性と20代後半くらいのカップルが囲んでいる。

たぶん,その人たちがいなくて,高齢男性一人で路肩に座っていたならば,私はやりすごしたかもしれない。気になったので様子を尋ねる。

駅の方から帰りの途中,何度か路肩にへたり込んでいる男性を見た近所の女性が,通りかかったカップルと一緒に放っておけないからといろいろ対応しているところのようだ。高齢男性は,救急車や警察を呼ぼうとするその人たちに「ムダ」の一点張りだ。家が遠くないそうなので,介助して行こうとするものの,杖代わりに傘をついて,体重を乗せるのに精一杯で歩けそうにはおよそ見えない。

止んでいた雨がぽつりぽつりと落ちてきた。事務所で少し休憩してはと誘うものの,帰るという。しかたないので私が背負っていたバッグを事務所に置いて,高齢男性をおぶっていくことにした。近くだという言葉を信じたのだけれど,最初の角を右に曲がり,上り坂を50メートルほど行った先をまた右に曲がる。一緒の3人は男性の荷物をもち,私たちに傘をさしての動向だ。不思議な五人組が歩く。

そうして300メートルくらい歩いただろうか。高齢者がそれほど重くなかったので,途中,二度ほど休憩しただけで家と思しき場所に着いた。古い2階建,玄関には鍵がかかっていて,人の気配はない。高齢男性に聞くと,家はここではないという。軒に沿って奥に進むともう1つ玄関がある。しかし,家はここでもない。奥の玄関の左3メートルくらいのところに,あとから設えた木製の外階段があって,その2階が高齢男性の家なのだそうだ。雨避け用にプラスチックトタンで屋根がつくられていて,空気は籠っているので暑い。

高齢男性はカップルと高齢女性の話には「ムダ」の一点張りでとりつくしまがない。私が彼の対応をすることにして,3人には救急車と警察への連絡をお願いすることになった。彼の了解を取っていてはらちがあかないので,路地近くの1つ目の玄関あたりで連絡していたようだ。階段下,高齢男性と私,二人になった。

息が辛そうなので,高齢男性がしきりに「話せば長くなるから」という話を聞くことはしなかった。それでも筋肉が痛み,地域で一番の病院で3回検査をしたものの診断がつかない。3回目の検査の際には体調が悪くなった。診断名は偽痛風で,高齢男性はそれを診断がついていないことと理解しているようだった。ボルタレンやロキソニンを処方されたものの筋肉の痛みは続き,別の病院に入院したものの,結局,その日,退院してきたところだったという。退院理由を尋ねなかったことに後で気づいた。

退院当日,家に戻って駅まで買い物をしている途中で歩けないくらいに体調を崩した。ベッドに寝ているから筋力が落ちた,と。私は熱中症であろうと思ったものの,少ない言葉に口を挟むことはしなかった。15時に買いものに出て,そのとき18時だった。彼は時計を見て,少し驚いた様子だった。往復1キロ程度の距離を行き来するにしては,あまりに時間がかかりすぎている。

少し落ち着いたところで,彼は木製の急な階段を慣れた手つきで登っていく。落ちてはまずいので私は後ろから抱えるようにして一緒に登って行った。ドアに鍵はかかっていない。先に入って涼しそうな部屋を探すと冷房をつけたままの一室があった。玄関に戻り,高齢男性のくつを脱がした。しかし,そこから先,立つ体力は残っておらず,おぶって部屋に入ってもらおうにも,体力が回復するのを待つしかなさそうだった。

救命救急士と警察官がそこにやってきた。事情を尋ねられたものの,通りがかりの者としか説明のしようがない。救命救急士が測ると体温は38度,脈拍は少し多い。私はそこまでいて,後は任せて事務所に戻った。

不思議な家だった。二階建の内階段を封鎖して,外階段をつけて貸す家を見ることがあるけれど,まさにそのもの。急ごしらえの玄関から中に入ると5,6メートル廊下があって,突き当りにキッチンが据えられている。廊下の左右に部屋があり,主に冷房がついたままの左の部屋で彼は生活しているようだ。

玄関を入ったところに画びょうで留められた新聞の切り抜きかチラシのような紙,反古に手書きのハングル文字が見える。ハングル語を勉強しているのだろうか。廊下に置かれたバケツに水が少し溜まっていて,そこに電源を点けたり消したりするのに使うらしい紐が垂れている。

このような特殊な出会い方をしていなければ,「話せば長くなる」話を聞きたくなってくる。

事務所があるこのあたりは,古くからある家やアパートと新しい小洒落た家とが複雑に絡み合っていて,ひと辻入るとまったく別の光景になる。小洒落た家は増え,古くからの家やアパートは減る。それでも,古くからこのあたりに暮らす人は容易く減るようなことはないように思う。

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