週末

12月。せわしないものの,校正が出てこないのでスローペースになっている。

家内が旅行割を使って知人と近場に行っているので,夕飯をひとりで済ませることに。事務所の近くの中華料理店に入る。帰宅してからアマゾンプライムの「事件記者」を見たら眠くなってしまう。リビングでうとうと。0時過ぎに眠る。

土曜日は朝食をとり,事務所まで。とりあえず仕掛の単行本と原稿整理のめどがついたので事務所を少し片づける。このところの気圧のせいか頭痛気味。

日曜日は頭痛が続き,昼前までうとうとする。起き出して事務所に行くがからだが重い。レルパックスを飲みしばらくすると治まってきた。夕方,家内と待ち合わせ吉祥寺まで行く。古本を数冊買って帰宅。

気圧

朝から調子がすぐれない。からだは重いし,全体鈍い感じがする。生暖かい風。事務所に行き仕事を済ませ,昼に一度家に戻りシャワーを浴びる。少しは好転するかと期待したものの,ますます調子が悪くなる。偏頭痛がしてきたので,ドラッグストアで葛根湯を買い飲んでみた。それでも調子はあまり変わらない。

17時過ぎまで仕事をして,帰宅。気温は下がっていないものの,非道い雨になっている。

島田一男の『昼なき男』『零号租界』『野獣の夜』の外池洋祐シリーズを捲っている。他に短編で書かれた話があるのかもしれないが,長編3作をまとめて文庫で復刊すると,それなりに反応あるのではないだろうか。

島田一男の小説は,読み続けていくと,もはや筋などどうでもよくなってきて,途中からでも,どんなシチュエーションだったかも気にならなくなる。まあ,小説はそういうものなのだろうけれど,途中からでも読めてしまうのは埴谷雄高の夢野久作評に示されたある種の座標軸とはいえ,まさか埴谷雄高も島田一男の小説になぞらえられるとは思っていなかっただろう。

決算

初年度決算がまとまり,法人税を支払い,区切りがつく。すでに第2期2か月は経っているものの,数字がクリアになる。持ち越しや先払いを含めて,12か月で区切ることができないものことは少なくないが。

地方税はネット経由で支払う手続きを済ませていないため,高田馬場まで出かけた。向井さんが遭遇する郵便局の混沌とは違う意味で,今時,銀行の店舗で何らかの手続きを済ませにやってくる人はスムーズに終えることは少ないに違いない。嫌味やら罵声やらが飛び交い,それらに対応せざるを得ないスタッフはいきおい慇懃無礼になる。悪循環にもほどがある。好き好んで,銀行の窓口で手続きをしたいなどと思わせたくなるかのような按配だ,まるでそれは。

昼に出かけて手続きを終え,事務所に戻ったのは14時近くになった。数は少ないとはいえ直送の準備をし,久しぶりに18時過ぎに仕事を終える。帰りに高田馬場まで行き,ブックオフで本を購入。

Vivaldiローカルでマストドンにアクセスしてみた。

net

週明けに新刊に関連した記事がネットで公開されると連絡を受けた。決算でただでさえバタバタとしているところに,取り繕う程度とはいえ,その対応は優先すべき。慌ただしくものごとをすすめる。

数で評価すべきことではない,いや,数ではない居場所を確保しよう,そればかり考えてきたにもかかわらず,生業の責任をすべてみずからでとる立場になると,その居場所に経済的価値を付加しづらいことに直面する。

昌己と先輩と飲んだときも,そこに話が至った。酒を飲みながらする話ではないんだけど。無意識に意味付けしてしまったジグムント・フロイトという男は,なんと罪なことをしたのだろう。言い間違いに意味があるなんて,そんなに逃げ場を封じ込めたいのだろうか。そんな話から始まって,平沢のone/the otherの関係からはずれたanotherの立ち位置を表現に見出したことについては,その後,面白くなくなったように思えるとはいえ,それは救いだという話。偶然を解釈せずに偶然のまま面白がることができないような,まるで関ジャムなんとかという番組のような指向。そんなことをごちゃごちゃと話した。

で,途端,これまで定期購読者を増やすための方策に悩んでいたところに,こんなに手っ取り早く,人とつながることができるのだと,不思議な感じがした。でもなあ,という衒いを抱え込んだまま。

決算に必要な数字をまとめるめどがついたので,昌己にメールしてみた。夜,飲むことにした。

18時半過ぎ,先輩とともに事務所までやってきた。少し話してから,川の向こう側の居酒屋まで行く。気がついたら23時過ぎで,すっかり飲んでしまった。

先輩は在学中はまったく面識がない人で,10数年前,業界に先輩がいることを知った昌己が年末の飲み会に誘ったときが初対面だったはずだ。数年に一度,飲み会で一緒になるくらいのつながりで,前回会ったのはいつだったかすっかり忘れてしまった。今は昌己が勤める会社で編集者として勤務している。

ハンリードギーの頃からのデヴィッド・ボウイファンで,その頃のロックファンの一定の割合を占めた美形ミュージシャンを渡り歩くファンであったことを初めて知った。現在,60歳前後で,10代のころからのロック好きに尋ねておくべきことは少なくないと思う。その人たちがもっている体験は,たぶん,その後,すっかり違う文脈で語られてきたのではないだろうか。

酔っ払いながら,当時のことをもう少し聞きたくなってしまった。

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