年度末

自称・筋金入りのアマチュア・フォークシンガーと久々に飲むことになっていたので,早めに仕事を切り上げた。雨。年度末で居酒屋の混み具合は非道いものだ。改札で待ち合わせ。予定していた店は初手からあきらめてしまい,線路を跨ぐ橋の先にある焼き鳥屋に入った。

赤目の合宿ではじめて会ってから20年近くになる。その後,妙な縁で仕事場が一緒になり数か月。その間,ほとんどやりとりがないまま,彼は先に退職してしまった。はじめて酒を飲んだのは結局,退職が決まってからのことだった。

麻布十番で飲んだときのことは以前,記した記憶がある。その後も神楽坂や高田馬場,大塚,池袋,浜松町でも飲んだ。最近は休みの日にはギターを抱えて,さまざまな集会に参加しているそうだ。ここ数年,憲法記念日前後に憲法フォークジャンボリーが開催され,彼は実行委員に加わった。

今年のチケットの受け渡しも兼ねて,久しぶりに飲むことになったのだ。

経営が変わってから初めて入ったその店はなかなか居心地がよい。焼き鳥中心につまみも豊富で安い。結局3時間以上,居座ってあれこれ話した。

今年で定年だそうで,65歳になるのだという。知り合いにこの世代の人が多いから,今年に入ってから同じような話を2人から聞かされた。出版業界の景気がよかったのは1997年前後のことで,そこに至る時代を経験している人とは通じる話がある。2000年からこちら,すでに20年近くになるものの,その間,出版の世界が蓄えてきた多くのノウハウというか技が継承されずに潰えた。継承しなかったのはあんたの世代だといわれれば,返す言葉はない。

ただ,ある時期,私より若い世代がこの業界からわれ先にと逃げ出したということは記しておいてよいはずだ(何だか大塚英志の文体風だが)。今年に入って定年の話を聞いた3人から同じように,自分の仕事を引き継ぐ後輩を育てられなかったと告げられた。

それでも会社は続くのが,くやしいけれど実際のところなのだ。

東銀座

何とか今月号分の座談会原稿をまとめ終わった。メールに添付して手を入れてもらう。自分で蒔いた種とはいえ,座談会連載は物理的に手がかかる。かといって今さらそれで文才が上がるわけでもないし。

ツイートを眺めながら東銀座界隈を思い出した。

昭和の終わりから3年くらいの間,銀座7丁目にある古いビルが職場だった。宝箱を開けるときに登場するのにそっくりな古い鍵で,焦げ茶色に塗られた1階の扉を開ける。宝石店の横が入口で,地下は飲み屋になっていた記憶がある。2階はメディア視聴率調査会社の下請けのような仕事をする会社,3階が会社の事務所だった。4階は応接室と資料室を兼ねてあり,そこから屋上に出られたはずだ。

ラジオ・テレビの広告関係者を対象にした日刊通信紙と月刊誌を発行する,いわゆる業界紙の会社だ。椎名誠が『新橋烏森口青春篇』に描いたような世界がいまだ続いていた。そのことは何回か書きとどめた気がする。

毎朝,馬喰横山の長い通路を歩いて都営浅草線に乗り換えた。東銀座で降りて,三原橋から裏通りをつたって事務所まで行き来した。銀座の裏通りには小諸そばや安い定食屋,弁当屋があって,昼飯は500円かけずに賄うことができた。八丁目の資生堂パーラーの裏通り,銭湯のならびに安くで食べられるラーメン屋があって,混んでいないときは,そこを利用した。銀座ナインが新橋であることを知ったのは,その中にある居酒屋でランチをとったときだったような気がする。

帰りには三原橋近くにあった画集中心の古本屋や,昭和通りの向こう側にあった博文館書店を覗いた。まだ,資生堂パーラーの並びのビルの二階に福家書店が店を開いていたので,新刊はそこで買うことが多かったけれど,違った棚を見たくなると博文館書店に行った。

博文館書店には,古い春陽堂文庫がたくさん並んでいた時期がある。覚えていないが何冊か買った。覚えているのは倉橋健一『辻潤への愛―小島キヨの生涯』(創樹社)を買ったことだ。発行が1990年なので,たぶん会社を辞める少し前に手に入れたのだ。

その頃は,三原橋から一丁目に向かう裏通りにも古本屋が1,2軒あり,ときどきそのまま歩いて八重洲ブックセンターに入ってしまった。京橋あたりはいまもあまり変わらず,月夜に目羅博士が出没しそうな雰囲気がある。

ハンターはソニープラザの地下と西銀座ビル(だったかな)に店を構えていた。中古CDをよく買った。近藤書店とイエナ,旭屋書店,ヤマハ,名画座。古びたビルを眺めながら東銀座まで歩く。

有楽町のガード下には小松が店を開いていて,早いときは事務所で缶ビールを空けた後,15時過ぎには安定感のないテーブルに焼き鳥が並んだ。サービスで出された鳥ガラスープで何度か火傷した。

私はもう20代を折り返していた。妙に賑やかだった銀座には,それでも居場所がいくつもあった。昨日,博文館書店はいつまで,店を開いていたのだろうかと考えた。

洋泉社

週末にかけて忙しいため,今週分のヒスタグロビンを早めに打ってもらいにクリニックに行った。注射は,なぜ打ち方に上手い下手が出るのだろう。原理は変わらないはずなのに。帰りにブックオフで洋泉社の『ウルトラセブン研究読本』,平井玄『ぐにゃり東京』を見つけて購入。日高屋でハイボールとつまみで小一時間かけて『ウルトラセブン研究読本』を読む。

平井玄の『ぐにゃり東京』は「GRAPHICATION」連載中に読んでいたが,しばらくの間,単行本になったのは知らなかった。昌己と飲んでいたときに『ぐにゃり東京』の話になった。校正の話が出てくるけれど,どんな人なのだろう,というような感じだったと思う。そのときは平井玄と平井正を間違えていて,「ダダナチ」を書いた人じゃないのか,なんて話をした記憶がある。

『ウルトラセブン研究読本』はまだ読み終わっていない。洋泉社については以前記したとおり,“1990年代に洋泉社がなかったら,読む本がどれくらい減っただろうか”という趣旨の菊地成孔の一文に頷首したことに尽きる。JICC~宝島社が妙な軌道転換をして後,洋泉社の新刊は琴線に触れるものが多かった。

後にある人から聞いた話によると,その頃,洋泉社に二人の経験者が転職されたそうだ。1人は宝島社から,もう一人は未來社から移ってきた。そりゃ面白い本が出続けるはずだ。洋泉社の新書が創刊されてからしばらくの間,かなりの割合で買って読んでいた。岩波はもとより,講談社や中公新書よりもその冊数は遥かに多かった。サイトをチェックしたら,その頃,読んだ新書は一冊も在庫がなかった。というか検索しても出てこない。さびしいな。

その後,ますますサブカルに重心が傾き,y新書創刊の頃のバランスは崩れてしまったけれど,気になった本の奥付をみると洋泉社だったことは何度かある。

加筆修正

井上ひさしの『組曲虐殺』を読み直しながら通勤していた数日。帰りの電車で読み終えた。ビールを買って家に帰る。夕飯を食べ,このところ寝る前に1,2話見続けている「ウルトラセブン」を1話分だけ見て眠った。

自分用のサイトに文章をアップしはじめたときのことを思い返す。Macではじめたときは専用ソフトを立ち上げ文章をまとめ,月ごとのhtml文書をつくり,ftp経由してアップ,更新を繰り返した。専用ソフトは自宅のデスクトップ上にあり,文章をまとめるのはパソコンデスクでと決まっていた。

メインマシンをWindowsに変えてからも,更新のしかたは変更しなかった。ラップトップを使っていたのに,文章を書く場所はいつも同じだ。書き終えるとhtml文書として保存し,ftp経由でアップする。それらの作業を1つのソフトでできるようになったものの,サイト上のリンクを貼りなおしたり,修正したりする原理は結局変わらなかった。

ドラスティックに変わったのは,WordPressを使うようになってからのこと。自宅だけではなく,職場の休み時間にでもさっと書いてアップできる。その利便性は貴重だ。iPhoneでサーバにアクセスできるから,どこにいようと文章をアップのは可能だ。ここ数年は,ほとんど職場で休み時間に書いている。

文章を練ったり,あたためたりするのは苦手だ。とりあえず書いては直すを繰り返す。だから,ここにアップした文章も,誤字脱字などが残ったままであることは少なくない。ときどき見直して修正したり,加筆する。その回数はftp経由でデータを上げていたときに比べると遥かに頻繁になったと思う。1日分をアップした後,平均3,4回程度は修正して更新しているはずだ。

15年くらい前に大塚英志が書いた文章のなかに,「ネットは書きっぱなし」というニュアンスの箇所があって,ああ,このあたりは環境依存によるのもしれないが変化したのだなあと思った。

日本ノンフィクション史

雪が降ってもおかしくないような寒さが戻ってくる。30年くらい前のこの時期,ベータカムで映画のようなものをつくりたがっていた芳弘に頼まれて,彼の家で夜を明かしてあれこれ話し,次の朝,いざ撮影を始めようと外を見ると一面雪だったことがある。

駅前の居酒屋で夕飯を食べて帰る。芳林堂書店で武田徹の『日本ノンフィクション史』を購入,一駅分の時間で1/3ほどに目を通し,寝る前に残りのページを捲った。改めて読み直す。

日本ノンフィクション史というのは,確かに記憶にない。覚えているのは雑誌やムックの特集で取り上げられた企画だ。「ノンフィクション」の定義から始めると,かなりあいまいにその言葉を用いていることに気づく。本書で取り上げられている筑摩書房の『世界ノンフィクション全集』第一期分がすべて実家にあった。家を処分する際に,あらためてラインナップを確認したところ,何だかとても読み返したくなって持ってきた。ただ,その後,インゲ・ショルの「白バラは散らず」が収載された巻を読んだだけで,他は手がつかないまま玄関に積み置いてある。

北杜夫が「夜と霧の隅で」の執筆当時,精神障害者に対するナチスのいわゆる優生政策(ガス室送り)について触れられていたのはこの本とあと数冊だったと回顧するエッセイを読んだのがきっかけだった。ところが「白バラは散らず」のなか,そのことについて触れられているのは,他の人が記したビラの引用箇所にほんの少しくらいだ。それを確認して終わりのはずが,年明けから“白バラ”関連の本を6,7冊集めてしまった。まだ読み始めてはいない。

1960年に「夜と霧の隅で」を発表した北杜夫が,いったいどのような資料を通して,世界的にみても早く,重要なテーマでこの小説をまとめあげたのか気になってしかたがない。

はじめてノンフィクションを作家で読み始めたのは本田靖春で,その次は吉田司だった。『日本ノンフィクション史』は,そうした隘路に踏み込まず,アウトラインを浮き彫りにしようとする構成でまとめられている。

ただし,戦前のたとえば夢野久作が記者時代にまとめた「東京人の堕落時代」はノンフィクションのくくりに入らないか考えると,それは悩ましい。というのも,つまり『日本ノンフィクション史』には新聞記者あがりの物書きについて項目立てされていないのだ。日本のノンフィクションの一翼を,新聞記者上がりの物書きがつくり上げたことは間違いあるまい。少し前に気づいたのだけれど,私は新聞記者あがりの物書きが記したのンフィクションが好みなのだ。小説であっても新聞記者あがりの作家は嫌いじゃない。

武田徹が仮にこの新書に続く企画を進めるときには,新聞記者,さらにいうならばコピーライターが書くノンフィクションについての歴史をつくってほしい。

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