週末

といっても事務所でゆるく仕事。

土曜日は昼前から出社。倉庫から届いた本を発送し,伝票を確認してソフトを立ち上げ登録,しようと思ったら,延勘が注文扱いになっている。取次に週明け,連絡しなければ。17時過ぎに家内と高円寺まで買い物に出る。庚申通りのケーキ屋で休憩し,古本サンカクヤマを覘く。スーパーで買い物を終え帰宅。土用の丑の日ということで鰻を奢る。

日曜日は午前中から出る。穴埋めの原稿をつくり,少し事務所内を片づける。18時過ぎに家内と高田馬場まで行く。ブックオフで本を購入し,夕飯をとって帰宅。相変わらず暑い。

STORESが7月はまったく動きがなくなった。たまった本を登録しなければと思うものの,なんやかんやで忙しく切り替えがうまくいかない。8月に入ってから追加登録する予定だ。

The Walk

このところ新型コロナ感染者が急増している。週のはじめに娘からLINEで発熱症状があるとのこと。この数年で,こうした場合の対応は様変わりした。近隣で発熱外来を設けているクリニックを探し予約を入れる。検査を受け,帰宅。サイトからMyHER-SYSに登録するとともに,保健所からのショートメールを待ったり,うちサポに登録したりする。前提は自宅療養だ。

で,ゼリーやら喉の痛み止めやらを調達して届ける。翌々日には,再度,あれこれまとめて届けた。幸い,喉の痛みと発熱以外の症状はないようだとはいえ,確率は低いと思いはするものの急変したときに備えておかねばならいし,落ち着かない。

お中元でいただいたビールを飲み続けていたところ,体重がまた増えてしまった。事務所での仕事中心なので運動量が圧倒的に足りない。娘のところまでの往復はそれなりの運動になるので,これ幸いに出かけたということでもある。

金曜日はお世話になっている先生も風邪気味ということで,かなり高齢なので大事に至らないことを願いながら,それでも校正を届けに行ってきた。

と,この数週間,1995年から96年にかけて,開局早々のFM横浜で放送されていた矢作俊彦をホストに迎えた対談番組「アゲイン」をmp3に変換していた。1回60分弱で手元に残っているのは12回分だ。昔,一人暮らしをしていた頃繰り返し聞いたことは覚えているけれど,どんなシチュエーションでカセットを回していたのかはまったく記憶にない。40歳代くらいまで,録音されている矢作俊彦の言い回しをコピーして自分が話すときに用いていた。mp3に変換しながら聞き直し,やはり面白いなあとしか感想が出てこないのが実際のところだ。

週末

土曜日は午前中,印刷所の社長さんが表紙と帯の刷り出しをもってくるので出社する。引き取ってから数件のメールに返事を出す。家内と待ち合わせ,恵比寿まで出る。大学での打ち合わせがなくなってから恵比寿にくることもなくなった。数年ぶりにきたような気がする。

LIBEARIE6で開催中の「中井英夫 生誕100年」展をみる。しばらく眺め,『水星の騎士』を購入して出る。東口に移動して,IT COFFEEで昼食をとる。アトレまで戻り,有隣堂で装丁の参考になりそうな本を購入。家内と落ち合い,アトレの西館で休憩する。夕飯用にお弁当を買って帰宅。

日曜日は事務所で仕事。校正が出てきたので送る作業などを済ませる。夕方,家内と待ち合わせ西荻窪まで出る。予約していた本を盛林堂書店まで取りに行く。ついでに島田一男の文庫本と『聖なる侵入』ともう1冊を購入した。昨日,今日で本を買うのに7,000円くらい使ってしまった。CAFEオーケストラで休憩する。記憶が乏しくなってしまったけれど,吉祥寺の羅宇屋を思い出してしまった。どういうわけだろう。つくりたての菓子にチャイ,どちらもおいしかった。

「中井英夫 生誕100年」展はとても静かな佇まいの展示で,らしいといえばらしい,原稿や葉書などをもう少し増やし賑やかにしてもよいかもしれないと感じた。展示室に続く部屋に古書,リトグラフなどが並んでいるなかに合田佐和子の油絵,ピラミッドと奇矯な人物の有名な作品が掛けてあった。200万円を切る値付けで手が出ないけれど,本物をあれだけ近くで目にすることができる僥倖。

島田一男の本は,ドイルの「四つの書名」をもとに書き換えた作品が収められている。このタイミングだから買う判断ができたけれど,これまでだったら躊躇しただろうなあ。

7/14

午前中早々に白焼きが出る。赤字チェックと素読み。帯に修正漏れがあり,デザイナーにデータの直しを依頼する。夕方に白焼きを戻す。天候のせいか疲れてしまう。合間を縫って会社のサイトを更新し,その後処理なども行なう。『少年探偵団読本』を捲りながら日高屋で少し休憩して帰宅。

ものごとに落ち着きがなくなってくると,それにつれてSNSを通した情報も荒れてくる。常時は荒れていても比較対照する感覚くらいは持てるはずが,どうも煩わしくなってくる。簡単なのは,情報のスリットを変えることで,結局,フォローを減らして調整することにした。全方位への目くばせを欠いてしまうのはリスクだけれども。殊にP-MODEL界隈の情報はどうでもよくなってきた。適切な対応ではないことは承知の上,SNSから本に戻る感じ。読み残したままのものがとにかく増えてしまい,ものごとはさておき,収拾がつかなくなっていたのだ。

いなかのじけん

初校出稿が遅れ気味。今週末には入稿原稿を揃えてしまわないと。

午前中は編集をお願いしている方とDTP担当者とで単行本の打ち合わせ。こちらの企画も刊行のめどがついた。8月に刊行がまとまってしまいそうでまずい。少しばらさないと。午後は注文書籍の発送とデザイナーとのやりとり。夕方から印刷所に行き,校正のチェック。帰りに池袋で降り,夕飯用にお弁当を購入して帰宅。暑さは少しおさまってきた一方で,雨と湿気が非道い。

アベノミクスの名のもとに実施された経済政策について,その是非を問う言説を目にする。首相の名を冠した政策から,その技術のみ取り上げて検証することに圧倒的に欠けるのは,その技術を実施した(できた)環境への視座だろう。

こうすれば,こうなる。そこまでは技術学だ。学問としての技術学には,しかし,その技術が実施可能になるための技術論=技術を可能にする原理・原則が欠けている。

アベノミクスを継続せよというメッセージには,アベノミクスを実施した体制に倣えというメッセージがついてまわる。結果としてアベノミクスを実施した実体をモデルとするしかあるまい。技術だけを持ち上げて,実施した実体はどうであっても実施可能であるというのでは,あまりに技術へのまなざしが空虚のような気がする。

時の首相と取り巻きでなければ,アベノミクスを実施できなかったとすれば,アベノミクスをいま評価し,継続せよという場合,さらに,歴史上,わが国ににおいてそれ以外の首相と取り巻きでは実施できなかったというのなら,なおさらにその手法(これはアベノミクスの技術学ではなく技術論だ)をまねるのが一番ということになりはしないだろうか。

アベノミクスを評価するメッセージに技術論が欠けていることの危うさと,なんだか感じてしまうのだ。アウトバーンを例にあげてナチスの政策のなかにはよいものがあったということと,それは同じなのだ。

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