2.0とか3.0とか

事務所で使っている中古で買ったWindows11マシンには本体の前後に数か所のUSBポートがついている。wifiはUSBポートにかなり小体な子機を差して使う案配だ。

最初,背面の上部に適当に差して使っていたとき,ネットのスピードは快適,メールチェックもアッという間でスピードの快適さに満たされてしまった。ところがしばらくしたあたりから,起動しても一度,ネットワークトラブルを回復させないとうまくつながらなくなってしまった。ネットワーク環境やルーターに問題が起きたのかもしれないと思い,それぞれ調整したりリセットをかけたりしてみたが状況は変わらない。

そういえば,Bluetoothスピーカーの充電をUSB経由でするために,子機のポートを差し替えた記憶がある。スピーカーとつなぐコードが短くて,上のポートを使ってつなげるためだった。二列に並んだポートの片方が空いているのでそこに子機を差し込んでみた。

なんということだろう。あれほど難儀だった接続環境がすっかり元に戻っている。よくよく考えるまでもなくポートはいつくかの種類に分かれてついていたのだろう。2.0とか3.0とかあまり気にせずに使っていたが,いや,使うポートによってまったく接続環境が違うのだな。USBメモリを差してデータを読み書きするには違いを感じなくても。

というわけで,再びストレスのない環境で,それなりにストレスのある業務を進めている。

下山

何か読もうと思い,書棚を眺めたところ,柴田哲孝の『完全版 下山事件 最後の証言』(祥伝社文庫)が目にとまる。ふと,島田一男が銀座三越の地下3階に新聞社を構えていた時期に下山事件と交差する物語ができないだろうかと思い,読み返すことにした。

松本清張経由で下山事件を知り,だいたいイメージするのは杉作J太郎の漫画に登場するあたりのところだ。矢田喜美雄の本を読み,覚えていないけれど他にも読んだ本はあったはずだ。

21世紀に入ってから森達也が突然,下山事件に関する本を出した。続けて週刊朝日の記者の本も出た。なんだか中途半端で刊行までに紆余曲折があったことは理解できた。そのあと,柴田哲孝の本が出て,たぶん単行本で読んだ気がする。文庫本が出て買って読んだのは面白かったからだと思う。ただ,森や朝日の記者の本に登場する「彼」と本人が書く「わたし」はかなりキャラクターが変わって読める。この三冊を続けて読むとした場合,一番面白いのは「彼」「わたし」のキャラクターの違いではないだろうか。本人が書くとやたらとハードボイルド風の語りになるのだけれど,他の二人が書いた「彼」はやや気弱なたたずまいだ。それが面白い。

Nice Age

昌己にメールをして夜,落ち合うことにした。新刊の件で尋ねたいことがあったのと,家内が職場の友人と夕飯をとるというので。

18時半過ぎに事務所で落ち合う。後で娘も合流するため,店を何軒か検討。結局,少し高めの割烹に入る。

当日捌いたウナギがある日が店先に告知が出る。以前,娘と入ったときに美味かったので,最近はときどき昼を食べにきている。夜は値段相応の美味いものが出る店で,それを美味いけれど高いととらえると入らなくなってしまう。しばらくは節約するところと金を出すところのバランスをとれば何とかなりそうなので,久しぶりに夜,入ることにした。

刺身をつまみに焼酎のお湯割り。要件は数十分で片づき,あとは話をあちこちに散らかしながら。1時間半くらい経った頃だったろうか。通りに怒声が響く。しばらく続くものだから店の人はもとより客も不審と不安が入り混じった感じ。引き戸が開いて,一人が店の中に入ってくる。「しつこくってっさあ」と二階に上がる階段のところで店の人と話をしている。外では相変わらず怒声が続く。「こら,てめえ,なにもしないからこいよう!!」。百歩譲っても,なにもしないわけないだろう。にもかかわらず,階段のところの男は出ていく。

昭和のドラマでしか見たことのない光景が目の前に広がり,なんだか不思議な感じだ。「じゃれているんじゃないか」昌己は冷静に評するが,それにしても迷惑さと妙な面白さが錯綜する。

「昭和にタイムスリップしたみたいな感じだな」といわれたが,まあ,この一角は他にも令和はもちろん,平成より前の空気を漂わせる店が何軒もあって,地場ば歪んでいるのかもしれない。

12/20

朝から事務所で仕事。10時半過ぎに高田馬場まで出て銀行の手続き。この間馴染みになってしまった不条理な行為だ。理にかなった行為ではないから,書類を出し,待ち,確認を得て帰るだけのことで,ただただ行員が作業する場に身を置くだけのこと。中井に戻り,早めに昼食をとる。事務所に戻り仕事の続き。

贈っていただいた『ブルームズベリー・グループ』(中公新書)を読む。フェミニズム運動の出自の一部にかかわるというものの,いまひとつその意味するところが理解できない。たとえば私の友人たちであっても当時,集まってはくだらない話を続けていたことに何らかの意味づけはできるかもしれない。その後,それぞれが社会的に高名な活動をしたかどうかはさておき。50歳を過ぎて探偵になったり音楽家になったり,なかなかではある。

昔,ほんの少しだけ読んだヴァージニア・ウルフの小説はまったく記憶にない。文学的に何がどうすばらしいのかはもちろん,なにひとつ感じることがない代物だった気がする。それがここ数年,ヴァージニア・ウルフの文字面を見る機会が少なくない。読み返してみようかとは思うのだけれど。

添う

死にゆく人を前に文学は,とか拳銃はとかのたとえではなく,近い将来,死にゆく人の前に向き合うことがある。母親の末期,仕事帰りに週数回,病院まで見舞いに出かけた。繰り返しになるけれど,末期とは当人にも関係者にも難儀なことが少なくない。亡くなったときから遡って,何かを考える癖がついてしまうと,どこか亡くなるときをただ待っているような感じがするということは以前書いた。

時間がないことは明らかである。ただ,ない時間がどれくらいあるのかわからない。その状況で死にゆく人に添うというのは可能なのだろうか。私は添えずにいることばかりのような気がする。

曰く,間に合うように一日も早くすすめてほしい,と言われたとき,にもかかららず,現実的に必要な時間を早める所作をすることがあまりない。決定的に添うという所作について,私は欠落がある。

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