7/12

仕事は編集の分をまわしていかないとまずいので,営業事務・経理はパートの方に任せる。著者校正の準備をすすめながら,サイトの更新など。20時前に退社。ポツポツと雨が落ちてきたので傘を取りに帰る。帰宅後,夕飯。Big Surにアップデートしてから数か月,ようやく落ち着いたMacBookAirでサイトの整理など。久しぶりにVivaldiのBlogを更新。

何らかのトラブルを抱えていない人は少ないに違いない。それにしても,私がトラブルを抱えた人とかかわりをもつ割合は,どうしたわけで高いのだろう。仕事で身近な人物から伝わってくる様子など,これはトラブルというよりも時限爆弾を抱えているような按配にしか思えない。にもかかわらず,やりすごそうとするから,まわりに火の粉がふりかかる。そのうち,まわりが離れていき,最後の方に残るまわりが,だいたい私の立ち位置だ。

過度にかかわらず,つまりその人を操作せざるを得ないまでの距離には近づかず,かといって,火の粉から逃げることもあまりしない。世の中よくしたもので(いや,そうとはいえないかもしれないが),短い時間,トラブルを抱える人とつながり離れていく人というのがときどきいる。どちらかといえば,私もそちらの役割を果たすほうが気が晴れそうに思う。ところが,だいたいが最後の方に残るまわりに入ってしまう。何をするにも遅すぎるあたりの感覚を抱えたまま。「から笑う孤島の鬼」じゃあるまいし。

週末

土曜日は,先のエントリーに書きとどめたことがなんともこたえた。

昼前に一度,カートを取りに事務所に行き,本を積んで戻る。那智君は13時過ぎにくるとのことで,持ってきた本を整理していると先のお客さんの一件。とりあえず終わり,この後,ワクチン接種に行く那智君と時間まであれこれ話す。15時過ぎに家に戻る。疲れてしまったので2時間ほど眠る。起き出して仕事を少しだけ。家内と夕飯をとり,1時過ぎに眠る。

日曜日は宅急便に起こされる。食事をとり,身支度をして事務所に本を持っていく。昨日同様,整理していると家内がきたので,そのまま吉祥寺まで買い物に出た。ゲイシャコーヒーの店で軽く昼食をとり,私はよみたやに,家内は服をみる。と,よみたやまでの間に急に雨,霰。1,2分路上を渡るだけで濡れてしまう。雨宿りをかねて本を眺める。50円棚から2冊購入。しばらく店内を眺めていると,雨が上がる。丸井まで戻り家内と合流。アトレの地下にできた喫茶店で休憩し,その後,書店で本を見て,少し休憩。家内と落ち合い,夕飯を買って帰宅。

「群像」が「ケア」の小特集だというので,立ち読み。このところの「ケア」への関心は,こんなふうにされてしまうのだなと思う。ケアの意味をケアの場にいる人がみずから伝えるのではなく,よいように解釈されるばかり。武谷三男が解釈嫌いだった理由はこのような風潮を敏感に汲み取ったからなのだろう。ギリガンは登場してもヘンダーソンは一言も出てこない。フェミニズムの文脈で看護(や介護)がその提供者の言葉を通して語られることはいまだほとんどない。まだ,米国の看護研究者のほうが,そうした言葉を発信していて,わが国では,勝手な解釈のなかで,出遅れた社会党のような立場に置かれているのではないか。

ケアワークをアンペイドワークの視点で切り取った上野千鶴子の功罪はいまだ尾を引いていると思う。あれはプロセスであって,その後にフラットなパースペクティブを見据えるためのものだったはずなんだけれど。

Difficulty

通称・上がり框古本市に2回訪れていただき,7月の土曜日にも来てくださった方。近所にお住まいのようだけれど,やりとりをしていると,私には長年なじみの疾患を抱えた方のような感触。前2回のときは少し感じただけだったけれど,今週末にいらしたときはその強さは久しぶりの感触だったので少し引いてしまった。

自分で頭髪を脱色中に手を黒くしたままいらして,そのまま上がり込む。まあ,最初のときは上がり框以外にも並べていたので,そのまま応対すると,田舎に帰ってこられたこと,父親のお墓が兄によって移されてしまったこと,若い頃,神社の警備のアルバイトをしていて,ある神社を訪れると感動すること,新型コロナ(マスクせずにいらしたあたりで,少し対応を変えればよかったと反省した)は人類への警鐘で高齢者は亡くなればよい,という一方,戦時中から戦後,この国の先達ががんばったから今のこの国があるということ。話に脈絡はあまり感じられないものの,一つひとつは率直に感じていることなのだろう。そのうち,作り話が少しずつ増えてくる。最近の症状はこのような感じなのかと,さすがにこのあたりになると気づく。

これが症状なのかどうか,私にはわからない。ただ,脈絡がとらえられず,感情の起伏の激しさを目の前にすると,どうも症状のような気がする。話題を類型的なものとして(なんだか聞いたことのある話だなという按配に)受け取ることもできるかもしれない。

このままどうしようかと思っていたあたりで,那智君が遊びに来てくれる。あがってもらうと,そのお客さんは用事があると言い出して,「本を買いに来たのだから見せて」といってくる。傍目にも調子がよくない様子になってきたので,選ばれたあたりの本を少し整理して2,000円を超える本を買っていただく。差額がカットして2,000円に。「本を買いに来たんだから」というのは必殺の一言だった。その前のやりとりや,その途中のやりとりも雲散してしまう。調子がよくないときに,本を買いに訪ねてくださったのだ。でも,次に出てくる言葉は「しかたない」だな。

正直,このお客さんへの対応はいまの私には荷が勝ちすぎる。以前ならまだしも,この年になると,どうも短絡的に話をまとめてしまう。ときどき話を聞いてほしいような感触を受けた。話を聞いていると,穿ったような目になる。穿つなら,そこで話を終えればよいのだろうに,さらに話は続く。

本を袋に入れて,次の用事の住所を言い,向かうべき方角を尋ねてくる。場所を確認するときも一悶着だ。初手から私が伝える方向でないという。そこで,お客さんの気に入る方向を伝えることはできたけれど,それはしたくなかった。道路に出て,iPhoneのマップで場所を見せ,何度か同じことを伝えると,ようやく納得してそちらに向かった。

しばらく那智君と話して,店を閉めた。このタイミングで徹からメッセンジャーで連絡が入る。さっき起きたことを伝えると,「君はそういう人を呼ぶなあ」と一言。確かにそうだ。私もそう思う。「本より,君を気に入っているんじゃないか。話を聞いてくれるので」。そうかもしれない。

路上ではなく,事務所の一部で店を開くとすると,この手の出会いが起きてもおかしくない。いや,症状(かどうかわからないが)とまではいかなくても,このお客さんにかなり似た人がふつうに暮らしていて,古本屋に入ってくることだってあるに違いない。他の古本屋の方はどう対処しているのだろう。

Care

昨夜,夕飯用に家内が買ってきたお弁当をもって出社。急遽,飛び込んでくる仕事を済ませ,白焼きを戻す。次号の準備をした後,単行本の原稿整理。20時くらいに退社。帰宅後,夕飯をとり,徹が送ってくれた紅茶を飲む。旨い。

フェミニズムとの関連なのだろうか,ケアをキーワードにした企画を目にすることが多い。まあ,SNSでその手の研究者などをフォローしているため,そう映る面が強いのだろうが。

ケアについて考えるとき,東浩紀が20年近く前,途中まで考えたセキュリティの問題を捨て置くことはできない。ただ,21世紀に入ってから,ジェスチャークイズではあるまいし「とりあえず,置いておいて」検討することに新しさの帽子を被せるようになった。セキュリティの語源は「配慮なしに済ませる」ことだという。環境管理型権力とセキュリティについての文脈で登場したこのくだりを読んだとき,結局,私たちが「ケアなしに済ませる」関係を選び取ったのだと思った。美辞麗句でケアを飾り,箱に入れてリボンをかけても,選択した事実は変わることがあるまい。

ケアを長きにわたり貶め,あげく人間工学によって代替し(ようとし)てきた歴史の一端は,たとえば,明治維新後,西洋には診療所ではなく病院というシステムがあることが知られ,そこには看護婦という専門職が患者のケアを行なっていることが知られたとき,この国ではその役割を当初は遊女に,次に浅草弾左衛門を通してその配下に担わせようとした歴史的事実をみても明らかだろう。ケアを当時の汚辱と禁忌にかぎりなく近い場で成立させようとした。これを「貴賤はないことの証しだ」と言い張るようなディベート輩にかかわるつもりはまったくない。

ケア専門職の職能団体が国会議員のもとへ陳情に行ったときの話を聞いたことがある。EPAに関連して外国から国家試験受験資格をとることができる人材が来日する前のことだ。職能団体では,人材不足の大きな要因は賃金が十分でないことにある。賃金を上げられるよう制度改正をし,人材が定着する職場環境づくりに力を貸してほしいと訴えた。ところが国会議員はひとこと「あなたたち,他人のしものお世話など汚い仕事,したくないでしょう。そういう仕事をまかせればよいんだよ」。ただ,こ奴,つまり国会議員はケア専門職の専門性をまったく理解していないこと,みずからしものお世話になるときにどう感じるかさえ想像できない程度の知力しか持ち合わせていないことは理解した,という。

「私のかわりにトイレに行っておいて」といえない,人が生きていくうえで欠かせない機能が,みずからの手だけではこなせなくなったときに,これまでの延長線上でそれらを支援するケア専門職の社会的機能について,まあ,そのリアリティを理解していくことは容易ではない。

で,ケアってなに? というあたり,共通認識があるようには思えないという話は,またあらためて引っ張り出すことにする。

7/7

下版の後処理を済ませ,営業の月次締め作業。引き継いで1か月半ともなると,データ入力上の間違いが締めに反映していくる。新刊の在庫がマイナスになっているので確認したところ,取次配本分を倉庫から出庫していることにしてしまっていた。締めのデータは入力し直し,データベース上はなんとか入庫時のデータを調整できた。18時過ぎに退社。日高屋で休憩し,高田馬場の芳林堂書店に行く。「新潮」を買い,「音楽と人」の赤い公園の記事を読む。家内と娘は映画を観に行ったので,駅近くの中華屋で夕飯を済ませた。久しぶりにウーロンハイを飲んだところ,やけに酔いが回る。20時過ぎから1時間ほど眠る。テレビを観ながら,入稿データを少し整理する。

那智君からメールがあり,土曜日に事務所へやってきたいとのことで,歓迎。様子をうかがうことにする。

矢作俊彦「ビッグ・スヌーズ」は行方知れずだったもうひとりをしまいにかかるも,また,やられる二村。島田一男が小説のなかで刑事に語らせている「有力な聞き込みとはなんだ? 偶然じゃねえか。目撃者の発見,これも偶然の場合が多い。おもしれえタレコミ(密告)とは? 偶然だぜ,これも。よくいうだろう、――運,根,勘……。運とは偶然さ。あたしたちゃ犯人と知恵比べをしてるんじゃねえんだからあ」は,推理小説の根幹を揺るがしかねない語りで,これにならえば,二村は犯人と知恵比べをしているのではないのだと,まあ,島田一男を通して理解するのはどうなのだろうとは思うものの。来月号は休載で,つづきは10月号。と,他の連載も軒並み次号は休載になるようだ。出版社の事情としては,五輪連休はまあ,スケジュールの調整が大変なので,連載をすべて休載にした特別号でもつくるのかもしれない。まさか五輪と文学なんてベタな特集ではないと思うがどうだろう。

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