近況

請負仕事が予定より2週間近く長くかかってしまい,並行するはずのなかった仕事がバタバタしている。インタビュー原稿3本のうち,1本はこれからまとめて月内発行。

家内から,寝ているときに息をしていない時間があると指摘されたのはしばらく前のことだと思う。自分ではそんなふうには思いもせず,ただ,いい歳だし,検査しておいたほうがよいだろうくらいの気持ちで西新宿のクリニックを受診した。

平成の初め頃,成子坂下に職場があったので3年くらい通ったものの,当時を思い出す風景はない。道路の変更が記憶に蓋をしてしまうことに,ときどき遭遇するのだけれど,このあたりの記憶とつながるものがここまで見当たらないと清々しくもある。

青梅街道を駅に向かうと,記憶と重なる街並みがポツリポツリと現れる。常圓寺とその裏の墓地が見えてくると,平成から昭和60年代まで遡ってしまう。

かぜ気味だったので,週末の昼飲みは1週間延ばして,ただただ終わりが見えてこない請負仕事と,その合間に入稿作業を重ねる毎日だった。

熱中

夕方家内と吉祥寺で待ち合わせるため,事務所を出た。数人の人だかりが見える。「救急車」「ムダ」あたりのやりとりが聞こえてくる。70代くらいの高齢男性を同じくらいの年の女性と20代後半くらいのカップルが囲んでいる。

たぶん,その人たちがいなくて,高齢男性一人で路肩に座っていたならば,私はやりすごしたかもしれない。気になったので様子を尋ねる。

駅の方から帰りの途中,何度か路肩にへたり込んでいる男性を見た近所の女性が,通りかかったカップルと一緒に放っておけないからといろいろ対応しているところのようだ。高齢男性は,救急車や警察を呼ぼうとするその人たちに「ムダ」の一点張りだ。家が遠くないそうなので,介助して行こうとするものの,杖代わりに傘をついて,体重を乗せるのに精一杯で歩けそうにはおよそ見えない。

止んでいた雨がぽつりぽつりと落ちてきた。事務所で少し休憩してはと誘うものの,帰るという。しかたないので私が背負っていたバッグを事務所に置いて,高齢男性をおぶっていくことにした。近くだという言葉を信じたのだけれど,最初の角を右に曲がり,上り坂を50メートルほど行った先をまた右に曲がる。一緒の3人は男性の荷物をもち,私たちに傘をさしての動向だ。不思議な五人組が歩く。

そうして300メートルくらい歩いただろうか。高齢者がそれほど重くなかったので,途中,二度ほど休憩しただけで家と思しき場所に着いた。古い2階建,玄関には鍵がかかっていて,人の気配はない。高齢男性に聞くと,家はここではないという。軒に沿って奥に進むともう1つ玄関がある。しかし,家はここでもない。奥の玄関の左3メートルくらいのところに,あとから設えた木製の外階段があって,その2階が高齢男性の家なのだそうだ。雨避け用にプラスチックトタンで屋根がつくられていて,空気は籠っているので暑い。

高齢男性はカップルと高齢女性の話には「ムダ」の一点張りでとりつくしまがない。私が彼の対応をすることにして,3人には救急車と警察への連絡をお願いすることになった。彼の了解を取っていてはらちがあかないので,路地近くの1つ目の玄関あたりで連絡していたようだ。階段下,高齢男性と私,二人になった。

息が辛そうなので,高齢男性がしきりに「話せば長くなるから」という話を聞くことはしなかった。それでも筋肉が痛み,地域で一番の病院で3回検査をしたものの診断がつかない。3回目の検査の際には体調が悪くなった。診断名は偽痛風で,高齢男性はそれを診断がついていないことと理解しているようだった。ボルタレンやロキソニンを処方されたものの筋肉の痛みは続き,別の病院に入院したものの,結局,その日,退院してきたところだったという。退院理由を尋ねなかったことに後で気づいた。

退院当日,家に戻って駅まで買い物をしている途中で歩けないくらいに体調を崩した。ベッドに寝ているから筋力が落ちた,と。私は熱中症であろうと思ったものの,少ない言葉に口を挟むことはしなかった。15時に買いものに出て,そのとき18時だった。彼は時計を見て,少し驚いた様子だった。往復1キロ程度の距離を行き来するにしては,あまりに時間がかかりすぎている。

少し落ち着いたところで,彼は木製の急な階段を慣れた手つきで登っていく。落ちてはまずいので私は後ろから抱えるようにして一緒に登って行った。ドアに鍵はかかっていない。先に入って涼しそうな部屋を探すと冷房をつけたままの一室があった。玄関に戻り,高齢男性のくつを脱がした。しかし,そこから先,立つ体力は残っておらず,おぶって部屋に入ってもらおうにも,体力が回復するのを待つしかなさそうだった。

救命救急士と警察官がそこにやってきた。事情を尋ねられたものの,通りがかりの者としか説明のしようがない。救命救急士が測ると体温は38度,脈拍は少し多い。私はそこまでいて,後は任せて事務所に戻った。

不思議な家だった。二階建の内階段を封鎖して,外階段をつけて貸す家を見ることがあるけれど,まさにそのもの。急ごしらえの玄関から中に入ると5,6メートル廊下があって,突き当りにキッチンが据えられている。廊下の左右に部屋があり,主に冷房がついたままの左の部屋で彼は生活しているようだ。

玄関を入ったところに画びょうで留められた新聞の切り抜きかチラシのような紙,反古に手書きのハングル文字が見える。ハングル語を勉強しているのだろうか。廊下に置かれたバケツに水が少し溜まっていて,そこに電源を点けたり消したりするのに使うらしい紐が垂れている。

このような特殊な出会い方をしていなければ,「話せば長くなる」話を聞きたくなってくる。

事務所があるこのあたりは,古くからある家やアパートと新しい小洒落た家とが複雑に絡み合っていて,ひと辻入るとまったく別の光景になる。小洒落た家は増え,古くからの家やアパートは減る。それでも,古くからこのあたりに暮らす人は容易く減るようなことはないように思う。

週末

土曜日,日帰りで広島出張。

元はといえば,Amazonの配送遅れに端を発したのではないかと思う。資料用に用いる紙を月曜日に注文した。到着予定は水曜日で,火曜日には発送を終えたとのメールが入った。

金曜日到着予定で広島に資料を送るには水曜日には発送を終えなければならない。ギリギリだけれど仕方あるまい。ところが,水曜日に2種類注文した紙の1種類のみ,それも18時過ぎに届いた。発送は間に合わない。段取りを変えるしかないのだ。

土曜日はだから,朝4時に起きて,5時には家を出るはずで準備をした。ところが,当日,目を覚ましたのは5時半だった。目覚まし時計をかけておいたにもかかわらず,こんなことは初めてだったので,一瞬,何が起こったのかわからなくなってしまった。もちろん,一瞬だ。

準備していた服を着て事務所まで走る。持っていく資料を抱えて駅に急ぎながら段取りをあれこれと考える。iPhoneで広島到着時間を調べる。四半世紀前の出張であれば,この時点で計画は白紙になっていたに違いない。まあ,便利にはなったのだ。

広島には10時前に到着する予定だったものが,この分だと10時半になりそうだ。1本でも早く新幹線に乗らなければならない。高田馬場から品川まで行き,ホームに着いたのぞみ号に乗り,席を確保した。

同じ便に乗り,広島駅で落ち合うはずだった方と30分遅れで合流し,在来線に乗り換えて会場近くの駅に降り,タクシーで会場まで行った。

会場のセッティングを済ませ,12時から1時間ほどの仕事。何とか終えた。

午後に入って2時間ほど会場であれこれと仕事をしていると,前日着で仕事をお願いしていた方の知り合いが船で厳島神社の鳥居まで行ってくれるという。その方の車でマリーナまで行き,船に乗り換える。1時間ほどのクルージング。風が心地よい。しかし強い西日だ。

駅まで送っていただき,同行者を広島駅まで送る。行きと同じように,来たのぞみ号に乗り,z卓に着いたのは23時くらいになっていた。何年か寿命を縮めたのではないだろうか,この一日で。

 

mobo

数年振りにmoboのキーボードとiPhoneをつないでみた。Plusを使っていた頃は会社帰りに喫茶店に寄って書き込みしていた時期があったのだけれど,その後,SE2に変えてからはほとんど立ち上げることはなかった。

で,繋げてみて,この環境の面白さというものがあるなと思った。

充電池は当分持ちそうだし,また使い始めてみようかと。

加藤和彦

北山修が自切俳人と名乗り,オールナイトニッポンに出ていた頃,深夜放送を私は聴き始めたのだと思う。数年の差が原因だと思うけれど,私の世代は北山修や加藤和彦についてほとんど知らないし,関心がなかった。昭和50年代が始まったあたりの,ガラガラと世の中が変わっていく速度のなかで,昭和40年代はただただ古臭いものとしてのみ認識していた気がする。

長く探した北山修のアルバム『12枚の絵』(オールナイトニッポンの最終回で演奏された「夢」や「北の海の道」が収められている)に加藤和彦との共作「旅人の時代」が入っていて,このアルバムを手に入れたのはいつのことだったか覚えていないが,それでも初めて聴いたときの不思議な感触を覚えている。

昭和50年代を折り返す頃,弟がCMソング「絹のシャツを着た女」のシングル盤を買った。上田知華+KARYOBINの「パープル・モンスーン」あたりがCMソングとして流行っていたのだったと思う。シングルでCMソングを買って聞くことがそれほど不思議ではなかったのだ。北山修はそのことを批判的に歌にしていたのだけど。

最初に買った加藤和彦のソロアルバムが『うたかたのオペラ』で,次に『ベル・エキセントリック』を手に入れ,『あの頃,マリー・ローランサン』からリリースに追いついた。昭和50年代の加藤和彦は,どこか石森章太郎に似たイメージがある。すごいのだけれどもメインストリームでは平たく言ってしまうと人気があまりない。まったくない,のではなく,あまりないというあたりが,ファンとしてもどかしかった。

流行は月単位で変わっていった。そこに腰を据えた活動をするミュージシャンはいたし,メディアはそうしたミュージシャンを取り上げることで売り上げを確保できた。その中で加藤和彦も石森章太郎も昭和50年代を折り返す頃になると,ネームバリューと人気の乖離が起きた。石森章太郎の人気は,彼が描く線に魅力を感じられなくなったことが原因だと思う。もちろんそれは一過性のもので,いまにしてみると当時の石森章太郎の線は魅力的だし,ただただ同時代的な変化にはついていかなっただけのことだ。加藤和彦については,声なんじゃないかと思う。

3部作リリースの際にコンサート活動をまったくしなかったのは原因の一つだと牧村憲一さんがラジオで語っていて少し腑に落ちた。さらに言うと,加藤和彦のボーカルスタイルの変化に(人気が出なかった)理由があるのではないかと思う。

三部作以降,前のエントリで書いたように,ボーカルスタイルに変化があった。デヴィッド・ボウイもブライアン・フェリーも低音を響かせるようになったのが昭和50年代を折り返してからのことだ。ジョン・レノンの新作は(当時は)望めない。「ベル・エキセントリック」までの加藤和彦のボーカルスタイルが人気を博すような外部環境はほとんどなかった。数年後,モリッシーをはじめとするボーカルスタイルでも人気が出てくるようになるのだけれど,加藤和彦は昭和50年代の後半,低音を響かせることに舵を切ったのだろう。デヴィッド・ボウイやブライアン・フェリーがそうしたように。

ネオアコをバックに高音を響かせる加藤和彦の歌を当時,聴きたかった。

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