記者

夕方から新刊修正の件で神保町まで。初刷はそのままでよいことになりホッとした。帰りに古本屋を覘こうとぶらつくものの,以前に増して駐車場化がひどくなっている。結局,アムールショップの均一で2冊100円だけを買う。日高屋で休憩。これが体調によくないのだと,この数か月でわかった。休憩せずにいるだけで体重が2kg近く絞られた。あまり休憩しないようにと思うものの,どうしたものだろう。帰宅後,30分ほど眠る。家内と娘は待ち合わせしていたらしく一緒に帰宅。夕飯をとる。

新聞記者の取材が不法侵入で逮捕されたニュースに絡めて,SNSで島田一男の小説に関するツイートがひっかかってきた。検索先をたどってみると,新聞記者が特権をもっている云々で,この手の輩かと納得し,その先をたどるのはやめた。

新聞記者が正義の人,などという話はどういう思い違いだろう。それをもとにしての新聞記者叩きだ。川内康範よろしく百歩譲って「正義の味方」というのならば,少しはその土俵で何か語ることができるかもしれないが。この手の二元論に物事を絡めて叩くのが流行っているのだろうか。1980年代のはじめの体験をもつ身としては,二元論自体を懐疑するのが当然のように思うのだ。

報道の公正性についてであれば,まだ考え得ることもあるだろう。それは正義とは話がまったく違う。そのあたりの話は散々,1980年代に語り尽くされた気がする。にもかかわらず,このところ目にする考え方や事件には,遠くはない過去の体験がすっかり抜け落ちている面は少なくない気がする。

切通理作の著作を誤読したまま論文や本をまとめてしまった大学助手は,経過を読む限り,当時の体験を持ち得ないことを結果的に武器にして,無知蒙昧さ加減を体裁で糊塗したまま物語をつくってしまったかのように思われる。

80年代を思い出すと,それは固有名詞の時代だったといえるかもしれない。固有名詞を出すことで,その背景を含めて前提が共有できる便利な時代だ。ウインドを通して普通ならば遭遇しないようなデータベースに繋がることはなかったから,固有名詞の由来を辿ることは難しくない。ただ,みずからの体験が露呈されるので,固有名詞の出し方のセンスが必要ではあった。

体験をもとにした固有名詞は誤読されづらい。好きでアクセスしたデータベースというか体験がもとになっているので,今回のように切通と大江の言説を履き違えるようなことはほぼ起きない。その漠然とした安全性を担保に,固有名詞が飛び交った。

固有名詞の意味が刷新されたとしても,そこにつながるデータベース・体験は付いてまわる。違和感を感じてしまうのは,身の丈じゃないことが多いからではないだろうか。矢作俊彦は「身の丈」などというと,この国民に竹下と揶揄したことを思い出すものの,やはり身の丈の話ではないのだ。新聞記者を正義といい揶揄するものも,切通の本を誤読するものの,身の丈に合った言葉を使っていない違和感が,だから強く漂うのだ。

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