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雑誌を下版した。今号も進行が慌ただしく,どのような姿になるか再校くらいまで読めなかった。まとまってみると,こういうことだったのかと腑に落てくるのだから,しょうがない。

徹が自宅とは別に1部屋を借りているという夢をみた。つげのマンガみたいな話だが,その1部屋が学生の頃に彼がいたアパートに輪をかけて非道いつくりだ。階段をあがって部屋に入ると,どうも床が平行とは思われない。そのことを徹に告げると,そんなことはないと,けんもほろろだ。

昌己も一緒に行って,なんだか昔みたいだなあと,ゆるい感じで和んでいる。あたりには学生時代に徹の部屋で見かけた本や小物が積み重なっている。もともと,腰高より長けのある家具を置かないようにしていた徹なので,ものであふれていた記憶はない。自分の部屋と重なってできたイメージなのだと思う。

押し入れを覗くと,どうしたことか,そこが新宿発の電車が通るトンネルになっている。気をつけろよ,と徹は悠長なことをいう。百人町から東中野,もしくは笹塚あたりの日が当たらない奥まったアパートという感じ。帰るには新宿まで出ればよいので,それほどやっかいなことはない。どこかで飲んだ後に立ち寄った流れなので,0時をまわっている。始発まで徹の家かなあ,などと思いながら,ウーロン茶を飲む。

雨が非道くなってきた。傘をもってきてないことが気がかりだった。

暗闇にノーサイド

この後,これまで読んできた本を一度だけ読み返したとしても,どれだけの時間がかかるか想像がつかない。新刊を追いかける一方で,読み返しへの欲望が沸き起こるのは,読書という体験が,私にとっては記憶として蓄積され,引用可能になることと,どこかイコールだからなのかもしれない。

矢作俊彦・司城志朗の『暗闇にノーサイド』を読んだのは刊行されてから1年ほど経った頃だったはずだ。高校時代の友人に,最近,矢作俊彦の小説しか読んでいないんだと告げると,『暗闇にノーサイド』あたり,と言われてことを思い出す。彼は,どんな経緯で『暗闇にノーサイド』をあげたのだろう。

高橋源一郎ではないものの,最初に『暗闇にノーサイド』を読んだときの感想は,これ,矢作俊彦なの? というものだった。まだ「夢見る森のスパイ」の連載は始まっておらず,もちろん『ブロードウェイの戦車』も刊行されていない短い期間,この小説はどうしたものだろう,いや,映画を撮るために書かれたシナリオを小説にしたものだということは理解してもなお,どうしたものだろう,というのが感想だった。

昭和が終わるまでに2回くらい読み返して,平成からこっちはたぶん一度も読み返していないと思う。『ブロードウェイの戦車』はときどき,読み返したにもかかわらず。

福田和也だっただろうか。本書のポルポト派に捕まった後の描写が凄惨すぎで評論家がほとんど取り上げなかったという評をどこかで読んだ記憶がある。確かに閉所恐怖症にはページをめくるのも憚られるようなシーンが前半続く。

平野仁がマンガにした『ハード・オン』を読んだときに,これは『暗闇にノーサイド』と地続きなのかと思ったことを思い出す。『ハード・オン』というマンガは,小説”A day in the life”のもとになるエピソードはじめ,その後の矢作俊彦の作品につながる要素が混在する面白さの一方で,マンガとしては必ずしも成功してはいないと思う。それは,たぶん,『はだしのゲン』をマンガとしては名作ではないという趣旨のポストをした矢作俊彦の感覚と共通するに違いない。

で,30数年ぶりに『暗闇にノーサイド』を読み返して,どうだったかというと,面白かった。こんなに面白かったのかというのが正直なところだ。エピソードのところどころを,その後,『ブロードウェイの戦車』のものと記憶していたことにも気づいた。

想像以上に面白かったので,刊行順にではなく,執筆順に読もうと思い,『海から来たサムライ』のページをめくり始めて,しばらく経った。

名古屋

出張でほとんどの都道府県を訪れたはずで,にもかかわらず土地勘はまったく身についていない。何度かそのように書いたと思う。

出張と観光,それぞれの土地での暮らしはまったく別のことであって,交換可能では決してあるまい。学会出張というのは特殊なものであって,だいたいが二泊三日,開催地に前日に入り,時間があるときは仕事関係の施設を訪ねる。学会二日目が終わると,東京へ戻る。この間,一日目の夜はたまに,二日目の夜はほとんんど,三日目の帰京車中はときどき,同僚他社の人と一緒に行動する。それは軟派な体育会系のような所作にただ浸る時間だ。

たまに観光がつくこともあるけれど,だいたいが酒場というか居酒屋でその時間が費やされる。ほとんどの都道府県を訪れたにもかかわらず,空港や駅からホテル,学会が開催される会場の記憶だけが,だから土地とつながるだけだった。

名古屋に出張で何度か出かけたことはある。覚えているのは名古屋駅あたりと学会があった会館,駅から会場まで長い橋がかかっていたような気がする。だいたいが駅と駅前は記憶に残るのだ。

コンサートチケットが当たった家内に誘われて名古屋に出かけた。仕事以外で目的地が名古屋というのは初めての体験だと思う。昼過ぎに着き,ガイドブックを片手に円頓寺商店街をめざす。休日の古い商店街は観光客目当ての店が開いているくらいだったものの,阿佐ヶ谷よろしく七夕の飾りが,それも制作途中のまま,あちこちに吊るされていて,わびしい感じに拍車をかける。暑い商店街をときどき心地よい風が通る。じわりじわりと汗が吹き出し,歩くだけで体力が消耗していく。

ガイドブックに掲載されていた喫茶店に入るため,20~30分くらい待つ。昼食をとって少し休憩したあと,日傘をさしながら四間道をぶらつく。30年くらいの間に何度か訪れた名古屋のイメージとはまったく異なるそこは不思議な街並みだった。食事を済ませていなければ,のぞきたい喫茶店が何軒かあり,懐具合がもう少しよくなったら一度くらい入ってみたい日本料理屋もあった。

訪れたけれども,知らない場所が本当に少なくないのだと思い知らされた。

20時過ぎにコンサートは終わり,地下鉄で名古屋駅まで戻る。駅弁を買って新幹線で食べながら東京に戻った。このあたりの感覚だけが,この30年,ただただ強化されていたのだろうと思う。

頭痛

6月は頭痛が非道かった。モンティ・パイソンよろしく「脳が痛い」という感じ。眠ってから1時間ほど経つと決まって片側の顳顬上の奥が痛む。典型的な片頭痛だ。起きだしてから常備している薬を飲み,再び眠る。半月くらいそのパターンが続いた。さすがにまずいだろうということで,頭痛外来を受診したのは1週間ほど前のことだ。

はじめてのそのクリニックはスマホで予約をした後,問診あたりまでは事前に済ませられる。予約時間に行き,それでも診察室に入るまで1時間くらいは待たされたのではないだろうか。シンプルな神経学的検査を受けて,処方薬の関係で,念のため,近隣のMRI検査専門施設の予約をとってもらった。

翌日の昼,こんなところにMRI専門の施設があることなどほとんど気づきはしまい。中野さんプラザの向いのビルの3階だったかに,都内近郊20数か所を有するグループの施設があった。

ここでも少し待ってから検査室に入る。MRIの音が気になるような成育歴を経ていないし,どちらかといえば好ましい音ではあるものの,ヘッドフォンをつけられておとなしい曲が流れるままにされる。造影剤なしだから,少し電子音のなかに身を漬けるだけのことだ。

頭痛になってから酒を飲む回数,量とも決定的に少なくなった。酒を飲もうがどうかにかかわらず頭痛はやってくるのだけれども,酒が誘導する側面もあるので飲みたくなくなったのだ。頭痛がほんの少し軽くなった――それでも常備薬は飲んだのだから,おさまってはいないのだ――あたりで夕飯にハイボールを1杯飲んだところ,まあ,当然のように夜半の頭痛がやってきた。2,3回,同じようなことが続いたので,さすがに飲むのを躊躇う。

転校生

同じように感じたのは映画「トノバン」を観たときのことだった。インタビューを受けただれだったか(つのだひろ?)が,加藤和彦はそのとき懇意にしている友だち以外,古くからの友だちであっても,スッと切るという意味合いのことを話していた。自分はいまの友だちに入っていないんだなあと理解して納得していた,そんな語りだった。

加藤和彦の来歴をたどると,何度かの引っ越しがあり,当然,そのたびに転校したのだと思う。

転校生は地縁に乏しい。明治の学校令と並行して,転校生という生徒が誕生する。サーカスや大衆芸能などとは異なる,親の都合でその土地に一定期間生活する家族が生まれるとともにそれは誕生した。親の転勤や離婚,死別などにより生まれた転校生の歴史はそれほど長くはないに違いない。

好むと好まざるとにかかわらず,住む家が変わり,地域が変わり,そして学校が変わる。だから子どもなりに転校生としての処世術のようなものを自然と身につける。土地に縛られないことを自由と呼ぶのであれば,それは自由だけれども,代償をともなうそれは自由だ。

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