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 気まずい沈黙が,無粋なBGMを頭のなかから追い出した。
 「お知り合いですか?」
 男が尋ねる。柑橘系のヘア・トニックが匂い,黒のプレーントゥが一歩踏み出した。
 「大学のときに。よく知っていますよ,あ奴のことは」
 「面白いバンド名だ,スコラ・ジプシーなんて」
 「“低人”じゃあ,さまにならない。いくら辻潤でも」
 「へぇ,知らなかったな。誰の趣味なんだろう。……きっと出口君だ」
 ぼくはストゥールから立ち上がる。腰にアルコールが溜まったらしい。床が妙に近く感じた。

 「売れると思いますか?」
 途端,男の背に力が入る。
 「たぶん。プロモーションに力を入れるし,ビデオの仕上がりも素晴らしい。いい手応えだよ」
 男は,自らの体躯を抱きしめるかのように腕組みした。
 「ただし,だ。ああいった音楽が匂わせるあぶなさを見出せないこと,そこが気になるが……」
 男はぼくを見てはいなかった。カウンター越しの鏡のなかに知り合いを見つけたかのように,視線は遠くを睨む。しばらく間を置いて,こう続けた。
 「……それが幸いしているのだろう。彼らは売れるよ」
 声のトーンは低く,普通なら聞く者に落ち着いた感じを与えるはずなのに,どこかバランスに欠けていた。それは単なる直感に過ぎない。しかし,物事の本質は常に第一印象のなかに潜んでいる。

 奇妙な感覚だった。何かとんでもない事件に自分が巻き込まれようとしていて,すでにそこから逃れられない。そして最初から,それは自分の事件だという感じ。なのに,その状態をどこかで楽しんでいる。

 「あ奴はスタイルになだれ込むのが得意だから。結果が見えてから,目的を何にしようと考えるタイプなんです。バンドだってそうなんでしょう。そういうの を“洗練された音楽”と言うのかも知れないけれど,ニューウェイヴって違うでしょう。少なくとも,あれはぼくが聴いてきた音楽じゃない」
 「彼らの音楽に対する評価,ということかな?」
 愉快そうに,男は顔全体で笑った。
 「別に。音自体に関心はありませんね。でも面白いと思うのは,やり方。何で訴えるものがないのに,ステージの上で絵になるのか不思議だった。妙に気に なったんです。最近は全然見てないですけどね……。二年くらい前のことです。目的なんてないと言ってしまえばいいんですよ。作品が出来上がってから題名を考えるのと同じにね。その方が,現代美術っぽくて格好いい。ダダよりシュルレアリスムの方が似合ってると思いませんか?」
 「……なるほど。で,今夜は?」
 「実は今も,その話だったんです。明日,スペシャルゲストをエスコートしてきますよ。ヒヤシンスの花束を抱えたテロリストを一人連れて。それがぼくの役目らしい」
 言葉が自然に滑り出し,思考が後から追いついた。構うことはない。
 「彼が用意した仕掛けとは,君のことだったのか」
 「仕掛け?」
 慇懃無礼と受け取られない,ギリギリのところで男は嬉しそうに微笑んだ。
 「走り幅跳びが得意だそうですね」
 ぼくがそう尋ねるのと同時に突然,落雷のようなノイズが耳を引き裂いた。

 「馬鹿野郎!」
 途端,Tシャツ姿の中年男が怒鳴った。ステージでは,理彦が接続の悪いマイクを相手に格闘している姿が見えた。ローディーが慌てて彼の周りを囲み,彼の 手からシールドを取り戻した。ご機嫌斜めのマイクに愛想をつかした理彦は,こちらに走ってきた。中年男がその姿を睨んだ。
 「すみません。まだ繋がってなかったんです。メンバーは今,出てきます」
 理彦は,嫌味なほど素直に謝った。
 「それでは,明日」
 一〇人が一〇人,つられて頭を下げてしまうような絶妙のタイミングで男は言った。気がつくと,男が楽屋へ向かう姿をぼくたちは追っていた。
 「関係者なんだよな?」
 「プロダクションの人さ。声をかけてくれた。柴田さん……あっ,これからリハなんだ。悪かったな。……で,さっきの話だけど」
 目の奥で何かを伺うかのように,理彦は囁いた。
 「行くだけ行ってみるよ。明日のライブに間に合わないかも知れない。それでよければ行ってみる」
 男に話しかけられたときに,答えは決まっていたのだ。ぼくは深く息を吐き,舌打ちをした。
 「ありがとう。そう言ってくれると思ってたんだ。亜子の連絡先は書いてある」

 ステージに見慣れた顔が現われた。スコラ・ジプシーのボーカリスト,出口司だった。缶ビールを片手に胡乱げにこちらを睨む眼は,妙に涼しい。理彦は彼に合図すると向き直った。
 「明日,スタートは夜七時。リハーサルなしでもみんな,合わせられるさ。あとは成り行き任せだ」
そう言いながら手品師のように振った彼の右手に封筒が現われ,次の瞬間,それはぼくの手のなかにあった。
 そのまま理彦はステージに駈け上がる。ストラップを掛け,腰でベースを構えた。エフェクターのスウィッチを爪先で軽く踏み込むと,それに呼応するかのようにサングラスをかけたドラマーが,椅子の高さを調節し直した。
 フロアーのライトが落ち,ステージにピンスポットが交差した。スティックのカウントでスタート! 地鳴りのような低音が駆け抜け,無人のフロアーが瞬間,緊張した。

 封筒を上着のポケットに収めると,ぼくは振り返りもせずに出口を目指した。Tシャツを着た中年男が睨んだ。
 「アルコールが入ってないと,自分の声に自信が持てないんだよ,あ奴」
 ミキサールームの二人はそのとき,ライブが終わるまで彼らが果たす徒労を,今日の仕事にすり替えたのだろう。卓を見つめる目が厳しくなった。
 ぼくの背中では,シンセサイザー付きロックンロールの演奏が始まった。コーラスパートの終わり,理彦の声がスピーカーを響かせた。
 「お前にだって見てほしいんだ!」
 傾斜の急な階段を昇り,出口を目指した。

 左右の壁にはポスターが無造作に張られていた。理彦に付き合ってライブハウスに出入りしていた頃,顔を見たことのある他人があちこちにいたものだ。今,ポスターにあるのは,聞いたことがないバンドの名前ばかりだった。

 階段の踊り場の上から小走りの足音が聞こえた。黒いハイヒールが見えたと同時に,鼻先で濃厚な香りを伴った風が翻った。
 「気をつけてよ!」
 ぼくの横を駆け抜け,振り向くとその女はそう言った。肩のあたりで切りそろえられた髪がクルっと揺れ,顔を隠す。そのまま階段を駈け降りた。低く少し鼻にかかった声が妙に印象的だった。

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