科学と技術


書店で「パブリッシャーズ・レビュー」をピックアップ。『技術システムの神話と現実』(みすず書房)の書評タイトルは「脱成長社会の『正気』の技術を求めて」,「未来世代への責任を探求する科学・技術論」だった。

このところ,科学技術に関する手頃な新書・文庫の刊行が続いているが,たとえば,このあたりの違いをどう読んでいけばよいのか,歴史観が問われるのだろう。

一般に,武谷の評論というのは,<科学的合理性>が問答無用の格別性をもち,それによって社会や文化の万象を快刀乱麻に切り捨てるというスタンスが最適だという前提がない限り,読むに堪えないものが少なくない。
吉岡斉も,『科学者は変わるか』(1984年)第三章で,武谷においては科学的精神が絶対善に祭り上げられ,正義は常に我にありという発想が前提とされていると述べている。
現代に生きる人で,武谷の前提を鵜呑みにする人はまずいないはずだ。(後略)
金森修:科学の危機,p.155,ちくま新書,2015.

武谷が八月四日にポツダム宣言の内容を読んで,『すぐに,ああ遂にアメリカは原子爆弾をつくったなと思いました。あの宣言をよく読んでみてください。『吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用』という語があります。これは間違いなく原子爆弾だと思いました』と証言するのである。

科学者ならこれが何かに思い付かないわけはない,とも証言していた。武谷はこの新聞記事を読んですぐに仁科のもとを訪ねるつもりであったが,八月に入ってのこのころには日々の動きが制限されていた。もし武谷が仁科に会いに行ったら,仁科も思想犯扱いされかねない状況であった。

(中略)

(戦後)日本学術会議内部での論争で,武谷は原子力の平和利用は原爆とどのような点が異なるのか,そこを明確にしなければならないと訴えた。そのうえで武谷は,原爆で亡くなった被爆者の死を無駄にしないためにも原子力研究は必要だが,その研究は一切軍事に用いない,利用されないとの態度が重要だとした。さ らに,原子力研究には一切の秘密性は避けるべきだ,情報公開の鉄則と,たとえばアメリカなどと秘密を共有する協定は結ばないとの政治的決断を明確に持つべきだと訴えた。

武谷はこうした点をかなり神経質になりながら,メディアで強調した。その論点には,アメリカ従属の枠組みへの鋭い批判が含まれていた。前述したが,私は武谷にも何度か会っている。武谷は歯に衣を着せぬタイプで正直に自説を披瀝するのだが,『人類の誤った方向へ科学を進ませてはならない」と言い,『自分は今のままの危ない方向に進むことを憂いている』ことを繰り返していた。
保坂正康:日本原爆開発秘録,p.214,280,新潮文庫,2015.

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