エクソダツ症候群


あとあと何かと助かるので留めておきたいのだけれど,7月に入っても,なかなか記録は続かない。以下,FBへの投稿に手を入れたもの。反精神医学や比較文化精神医学に関する文献が少しは手元に残っているので,ついページを捲ってしまった。

渋谷に出たついでに,山下書店で宮内悠介の『エクソダス症候群』を購入。舞台は火星の精神病院で,この時代,DSMは47まで改訂されている設定。各章のトビラ裏には,フーコー,中井久夫,安藤治,ルーゼンス(ギールの街の人々!)などなど。反精神医学に関連する懐かしい固有名詞が次々に登場してきて眩暈を起こしそうだった。25年前に精神科医である父が起こしたある事件(実験?),『ドグラ・マグラ』?? 後半を読み進めているあたりでは,この界隈では極北の山野浩一の『花と機械とゲシタルト』を越えるかどうか,楽しみだった。

週末をかけて読み終えたところでは,たぶんこれまで描かれたなかでもっとも読後感のよい反精神医学本という印象。なにせ,レインの最期を例にあげるまでもなく,この領域をとりあげた本は読後感が非道いものばかりなので,これは貴重だと思う。ただ,『花と機械とゲシタルト』と比べるものではなかった。まずは再読中。「情報操作社会のモデルとしての精神病院」で秩序の維持が成立し得るなどという小説のネタを考えていたことを思い出した。

FBでは,1980年代の後半,後に卒論に使った文献の抜書きをしたので,転載しておく。最初のものは比較文化精神医学関連について述べられた箇所。

民族精神科医ジョルジュ・ドゥヴルーは文化的相対主義理論の背景にかくされた公準,すなわち個人が病気になりうるならば,社会は必然的に常に正常である,という公準を明らかにした。ドゥヴルーが考えているように,『病的な』社会が存在するかぎり,集団の範囲を取り入れる者は,自分の中に病的な規範をも取り入れているのである。したがってここでは,健康の真のしるしは反逆であって,適応ではないことになる。

自ら病気にならなければ,その社会に適応できないほど病的な社会が,あるいは社会の一部が,存在することを認めなかったために,文化主義理論は自らの欠陥を証明してしまった。

ロラン・ジャッカール,内藤陽哉訳:狂気,p.43-44,文庫クセジュ,1985.

野田正彰の『狂気の起源を求めて』(中公新書)などで魅力的なディスクールが展開されたとはいえ,1980年代に比較文化精神医学は,こと臨床的にはあまり役割を果たすことがなかった。ただ,1990年代からこちら,あり得るのかもしれないと思いもした。

学問の進歩は人間を解放していくとはかぎらない,このことは精神科医療史においてもわたしたちは認識しなくてはならない。というのは,一九世紀においては自由で開放的で人間的であった精神病院が,二〇世紀にはいると,つめたい無情の収容所にかわっているのです。その理由として,社会的な要因はもちろんおおきくありますが,精神障害の概念がはっきりしてくるとともに,いくつかの精神病が不治のものとみなされるようになったこと,身体的治療法がでてくると心への働きかけが無視されるようになったこと,などを指摘しなくてはなりません。
岡田靖雄:差別の論理-魔女裁判から保安処分へ,p.23-24,勁草書房,1972.

「この本をつくるきっかけをつくってくださった羽仁五郎さん,武谷三男さん,わたしにたえず刺激をあたえつづけてくださっていた川上武さんに……」とあとがきに記されているこの本を捲り返したのは,「反精神医学は文学的に興味深い」とリプくださった小説家・宮内さんのおかげだ。岡田靖雄は必ずしも反精神医学にのみ依拠された方ではないものの,本書のなかで当時,自分が引いた線をたどると,そこに「技術論」の視点が見えてきて,面白い。

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