お別れ会


みちくさ市の様子については別のブログに記したので,日中の用事について留めておくことにする。

井上さんと初めて会ったのは,浜松の研究集会でだったと思う。20年前のことだ。当時,自社で通らなかった企画を知人から預かった当時の社長が単行本化を決め,私が担当することになった。出来上がった本を並べられる直近の集まりが浜松の集会だった。

子どもを授かったことがわかり,仕事では竹内先生の企画は真っ只中。業界はまだ右肩上がりの成長を続けていた。風向きはよかったけれど,それでも仕事上ではいくつもの軋轢があった。なおさら,この仕事を続けて,何とかなりそうだという気分を初めて感じたのがこの頃だったように思う。それは決して覚悟ではない。

甲高い声で,顔は笑ってもメガネの奥の目が暗い。矢作俊彦が高橋源一郎を称するような感じの人だった。その後,いくつかの仕事で原稿をお願いした。データに基づき,テーマを運動に繋げて展開するのが巧い。もちろん,それが井上さんの役割なのだから,巧くなければ勤まらない。ただ,ときどき,繋げて展開することより,心情に訴えかけてしまいがちなのが,この世界の常にもかかわらず,井上さんは心情で人は動かないと割り切るところから始まっているようだった。まだ30代だった私に,それはなかなか難しい判断のように思えた。

一度,体調を崩し手術をされたと伺ったことがある。順調に回復され,仕事に復帰した。10年前に連載を頼みに入谷の事務所に伺った。当時は打ち合わせのために,1,2か月に一度は事務所に通った。あるとき,メールが入った。上部団体に移ることになったので,連載の続きをお願いした人を紹介したい。井上さんらしいなと思った。

それから3,4年後。連載の後任の方からの情報をもとに本を一冊刊行した。本の活用をお願いしに,湯島まで出かけた。すでにトレードマークになっていたイヤフォンをぶら下げて井上さんが出てきた。本の活用をお願いしながら,斯界の話を少しだけしたけれど,やっぱり心情で人は動かないよ,というスタンスは変わっていなかった。

年越し派遣村のニュースで井上さんを見たときも,井上さんらしいなと思った。定期的にメールが届き,FBで活動の様子を知った。

昨年のクリスマス。井上さんが亡くなったという情報が飛び交った。数日後,新聞に訃報が掲載されたけれど,多くの人が信じられない様子だった。

青山葬儀場には,それはたくさんの人が集まった。新聞記者や国会議員にまざって,20年前,浜松で,入谷で,いくつもの運動にかかわった人が何人もいた。

井上さんが私と同い年だと知ったのは,亡くなってから後のことだ。

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