日本ノンフィクション史


雪が降ってもおかしくないような寒さが戻ってくる。30年くらい前のこの時期,ベータカムで映画のようなものをつくりたがっていた芳弘に頼まれて,彼の家で夜を明かしてあれこれ話し,次の朝,いざ撮影を始めようと外を見ると一面雪だったことがある。

駅前の居酒屋で夕飯を食べて帰る。芳林堂書店で武田徹の『日本ノンフィクション史』を購入,一駅分の時間で1/3ほどに目を通し,寝る前に残りのページを捲った。改めて読み直す。

日本ノンフィクション史というのは,確かに記憶にない。覚えているのは雑誌やムックの特集で取り上げられた企画だ。「ノンフィクション」の定義から始めると,かなりあいまいにその言葉を用いていることに気づく。本書で取り上げられている筑摩書房の『世界ノンフィクション全集』第一期分がすべて実家にあった。家を処分する際に,あらためてラインナップを確認したところ,何だかとても読み返したくなって持ってきた。ただ,その後,インゲ・ショルの「白バラは散らず」が収載された巻を読んだだけで,他は手がつかないまま玄関に積み置いてある。

北杜夫が「夜と霧の隅で」の執筆当時,精神障害者に対するナチスのいわゆる優生政策(ガス室送り)について触れられていたのはこの本とあと数冊だったと回顧するエッセイを読んだのがきっかけだった。ところが「白バラは散らず」のなか,そのことについて触れられているのは,他の人が記したビラの引用箇所にほんの少しくらいだ。それを確認して終わりのはずが,年明けから“白バラ”関連の本を6,7冊集めてしまった。まだ読み始めてはいない。

1960年に「夜と霧の隅で」を発表した北杜夫が,いったいどのような資料を通して,世界的にみても早く,重要なテーマでこの小説をまとめあげたのか気になってしかたがない。

はじめてノンフィクションを作家で読み始めたのは本田靖春で,その次は吉田司だった。『日本ノンフィクション史』は,そうした隘路に踏み込まず,アウトラインを浮き彫りにしようとする構成でまとめられている。

ただし,戦前のたとえば夢野久作が記者時代にまとめた「東京人の堕落時代」はノンフィクションのくくりに入らないか考えると,それは悩ましい。というのも,つまり『日本ノンフィクション史』には新聞記者あがりの物書きについて項目立てされていないのだ。日本のノンフィクションの一翼を,新聞記者上がりの物書きがつくり上げたことは間違いあるまい。少し前に気づいたのだけれど,私は新聞記者あがりの物書きが記したのンフィクションが好みなのだ。小説であっても新聞記者あがりの作家は嫌いじゃない。

武田徹が仮にこの新書に続く企画を進めるときには,新聞記者,さらにいうならばコピーライターが書くノンフィクションについての歴史をつくってほしい。

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