武谷三男

武谷三男編『自然科学概論』(勁草書房)は,仕事の関係で必要になり手に入れた。必要なところしか読んでいないものの,それでも印象的な箇所があちこちにある。

第3巻の「おわりに」は全文引用したくなる密度。(ここで言う「特権」は,「私権及び身分をあらわすものであり,差別の論理」であって,近年一部で用いられている恣意的な意味での“特権”を指すものではない)

反語のようだけれど,「公共」と「自由」が置き換え可能のように感じる。

よく日本で,公共の福祉のためには,基本的人権も制限されても止むをえない,というような政治家の議論をみることがある。しかし,これはまことに誤った考えかたである。公共の福祉というものは,人権のために存在するのであり,人権を完全に守るためのものである。公共のために制限されるべきものは特権なのである。その意味で日本には公共というものが真に確立されたとは言いがたい。公共ということが日本でいわれる場合,必らずそれは,特権の代表としての国家権力というものになってしまう。つまり,日本に存在しているのは“お上”であって,公共ではない。これは日本社会を外国の社会とくらべるとき,だれでもまず最初に気がつくことである。すなわち,警察とかその他の政府機関というものが,外国のサービス的なありかたとまるで違って,権力的であるのはそのためである。
 
それと同時に人民もまた,真の意味の公共という観念をもっていない。いな,公共は存在しないのだから,それも当然である。公共のない国家権力は,人民の利益に対立するものであった。これが“奉公袋”という言葉の奉公である。このような公に対して,人民はただちに対立した構えをおこさざるをえないのである。それは国家権力が,つねに人民を制限し無視するためである。戦後日本の社会制度には部分的に民主主義が導入されたといっても,まだ公共が確立されていない。今日の為政者は,公共を国家権力におきかえるし,人民の側も,公共を下からつくりだすことに成功したとは言えない。
 
(中略)
 
外国の産業革命は,労働者の非人間的な悲惨を生んだ。それと同時に,労働階級の団結がはじまり,その反撃によって,はじめて科学・技術と人間性が確立する段階へと,時代は進んだのである。そして,労働者階級が人間的な要求,すなわち基本的人権の確立のために,団結をたたかってきたということが,同時に技術の発展の源泉となってきたのである。
 
日本においては,そのような団結が微々たるものにとどまっていたので,科学・技術の本格的な発展を示さなかった。生産は労働の犠牲のうえに発展した。技術の発展によって生産が発展するというよりも,労働の搾取によって生産の発展がもたらされるという傾向がきわめて強かった。こうしたやりかたは,科学・技術の発展を阻害するものである。

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