記憶

とりあえず予定していた1冊の下版データを揃えて印刷所に渡す。白焼きで赤字が入ることに了解を得る。しかたあるまい。19時過ぎに会社を出て,昼休みに買ったコンビニマンガ『変身忍者嵐 外伝』(石川賢)を読むため,池袋の喫茶店に入る,赤ワイン1杯とカップに入ったグラタン。

幻の昭和60年代後半の記憶を整理してみて,脈略のないエピソードにようやく意味が乗っかったような気がする。

同じようにして毎年,何があったか整理しておくといいなと思った。2003年以降は何がしかの記録が残っているものの,1994年から2002年までの間,書き留めたものは何もない。結局,仕事や本,CD,映画にコンサート,旅行に友人・知人に起きたことを手掛かりにするしか術はない。それが不思議だ。

5歳の頃。父が運転する自転車のフレームに付けた補助椅子に乗った私は足をぷらんぷらんさせて遊んでいるうちに前輪に巻き込まれた。これは怪我につながったことだから記憶にあっておかしくないけれど,同じ頃,空き地に置かれた大きな水道管のような筒。そのなかに入って遊んだとき,鼻を強烈に刺激したケミカルな匂いを,ときどきふとした拍子に思い出すことがある。

アスファルトが焼ける匂い。酒屋の前で日吉駅までのバスを待ちながら,空き瓶から酒蓋を取り出しコルクやプラスチックの栓を外すときの匂い。新幹線の匂いや冷凍みかんにも記憶としての匂いがある。

同じように,この20年にも,記憶と結びついたなにがしかの匂いがあるはずだけれど,子どものときほど印象に残っていない。

それよりも何も,生まれてから10歳まで10年しか時間が経っていなくて,それから20歳まで同じく10年しか経っていないというのはおかしくないか。記憶は時間軸に,決して均等には足跡を残さない。

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