モラル


星野博美が『銭湯の女神』をまとめたときに出た書評で,“新たなモラリストの誕生”というタイトルがあったように思う。当時,“他人の身になる”というテーマを抱え込んだまま数年経ていた頃だったので,無理やりこじつけて企画にならないかと考えたことを思い出す。

犬養道子の訃報を聞き,1980年代以降の著作は,偉大なモラリストの足跡だったのだな,とため息をつく。一方で,犬養道子のモラルを固めたのがおもにキリスト教であること,また自身の日々の困難さと必ずしも合致していないところが星野博美との違いだな,と再びため息をついた(その意味では1970年代までに書かれた原稿に,より自身の困難さは反映されている。ただ,この時期の“出羽の守”的言説はなかなな共感しづらい。エッセイとしてはとても面白いので,ほとんど読んでしまったけれど)。

キリスト教を背景にした犬養道子と神谷美恵子の活動には,どこか共通するものがある。そしてこの二人が示す夢は,世の中にとって大切だと思うのだ。

数日前,岸政彦さんが平凡社で企画されている神谷美恵子コレクションか何かの腰巻用に記した文章をめぐり,出版社側の非道い対応を詳らかにされた件があった。その後,岸さんみずから,きっかけとなった文章を載せられたので読んだ。確か,略歴をていねいに紹介しながら,神谷が未治療のハンセン病患者の様子を“野獣のように”と形容したあたりをとっかかりにまとめたものだった。

少し違和感をもった。

ハンセン病患者を隔離してきた制度,社会に対する神谷の眼差しは,フーコーの『臨床精神医学の誕生』を訳した仕事とつながり,それは一貫して医師としてのスタンスからのものだろう。

今後,吉田司や山口泉が宮澤賢治を検証したような仕事が,神谷に対しても行なわれるかもしれないが,医師でありクリスチャンである神谷は容易く動員されるようなことはなかったと思う。また,他者を操作するかのようなこともしなかったのではないか。

以前,『街の人生』のなかで拒食症や性同一性障害の方への聞き取りを読んだときにも,今回と同じような違和感をもった。私が医療系の編集者を生業としているから感じてしまうのだろうけれど,岸さんは医療と接点をもつ内容に触れるときの取り扱いかたが独特だ。まるで,「治りたい」という気持ちに近づきそうになると,サッと距離をとるかのように感じる。

「治りたい」気持ちは,社会を破壊しうる地獄の窯なのかもしれない。蓋を開けたからといって,そこに社会が映し出されるよりも,もっと個人的なドロっとした臭気を漂わせながら沸々とした何かを見てしまうだけ。

答えがあらかじめ示されていない中,医療者がもつ患者・家族それぞれの生活への視座とそのための実践は,ときどき夢なのではないかと思うほど美しく汚れている。そして,町中の人を通して,その姿が伝わりづらいことに,もどかしさを感じる。

岸さんは「現在を生きる私たちが,神谷の文章をそのままのかたちで,素朴に読むことは非常に難しい」とするものの,そのときどきにそのままのかたちで読むことからしか,何もはじまりはしない。もちろん,何かをはじめなければいけないなんてことはないけれど。

長嶋愛生園を訪ね,公表の術もなく聞き取りを続けた徳永進の今日に続く苦闘は,鶴見俊輔の活動は言うまでもなく,神谷の本を素朴に読んだところから始まったはずだ。徳永は,故郷を捨てるよう強制された元患者が本当の故郷に帰りたいと思ったときの宿泊先として「こぶし館」をつくり,維持運営してきた。そこには美しく汚れた生活が染みついている。

岸さんの文章は,神谷が書き残したものを,そのままのかたちで読むことしかできないと示しているのかもしれない。神谷自身が夢物語をつくったのではない。そのときどきの私が,神谷の夢物語をつくったのだから。

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