切り取り

タイムラインを眺めていると,徳永進さんが書いた「ヴァージニア・ヘンダーソンの14項目」を思い出した。数年前,きっかけは忘れたものの原稿用紙12,3枚のその文章の一部をFBに投稿した。

データが残っていたので,段落を切りながらツイッターに投稿してみたけれど,端折りかたが悪かったなあというのが正直なところ。とりあえず前半だけ打ち込んでみた。

 何年前になるだろう,前科9犯の男が脱水症で入院してきたことがある。なぜか点滴がすぐ効き,男は元気になり,不良行動を起こすようになり,退院してもらった。退院しても3食付きで挙句に看護婦さんの笑顔の「いかがですか?」付きの病院が忘れられなかったのか,さらには,看護婦さんのおしりを触ったりしたからおしり触り付きの病院が忘れられなかったのか,男は12時になると病棟に姿を見せた。「帰りなさい」「てめぇやるのか!」。ガードマンと取っ組み合いとなり,主治医のぼくは詰所からの電話で呼び出された。

 取っ組み合い中の9犯の手を後手に取って,「帰れったら帰れよな!」と腕を締め上げた瞬間,男はぼくの頬を残りの手でぶん殴った。殴られた瞬間,「あ,これで10犯だ」と思ったぼくは,受話器を取り近くの交番に電話をかけた。駆けつけた2人のおまわりさんに訴えたが,おまわりさんは「だめですよ,赤くなったくらいじゃ。パカッとえぐれてなきゃ」と言い,男は10犯にならなかった。「一晩だけ」と言っておまわりさんが9犯を連れていった。

 翌朝男は,外来の診察室に現れた。

 「昨日はいいとこ,泊めてもらったよ。寒くって,暗くってよお。わびをいれてもわらなくちゃね,わびを」

  男は声を張り上げた。それから夜中の恐喝電話が続いた。

 数日後の朝の4時,ガードマンから電話がかかった。「例の男がきてます。当直医は主治医を呼べって言われます。ぼくらも困ってるんです!」

 9犯は,ぐでんぐでんになって救急室に寝ていた。引っ張っても起きてこない。廊下を引こずっていると,男は玄関でパッと起き上がり,「送ってくれるのだったら,帰ってやる」と言った。

 9犯のアパートは,「チャンポン麺・ギョウザ・皿ウドン」と書いた看板を左に曲がった路地のその奥にあった。古い木造アパートの一番端で,ガラス戸が壊れている。小便の臭いがした。「上がってよ」9犯は言い,ぼくは部屋に上がった。

 6畳の部屋,畳みは1畳,あとは新聞紙。障子も破れている。錆びた小さな冷蔵庫を開けると,牛乳も卵もなく,箱酒が3個あった。布団も毛布も湿っぽく積んであった。もちろん,洗濯したシャツもタオルもバスタオルもない「あなた遅かったね。みそ汁あっためて飲む?」などと聞いてくれる人はいない。「ねぇ,ローン借りて,2DKのアパートに引っ越さない?」と未来の夢を語る人もいない。「今度,城崎温泉,いこうか」とレクリエーションを楽しむこともない。宗教も仕事も学習もなーんもない。

  「まあ座ってよ」と男は言って,敷いてある新聞紙を取ると,そこに,ピカッと光る出刃包丁が6丁ズラッと並んでいた。カタカタとぼくはふるえる。

 これなら9犯になるわな,とぼくは思った。そのとき急に,ヴァージニア・ヘンダーソンの14項目がスッとこの部屋に入ってきた。この部屋にはヘンダーソンの14項目がスッポリ欠落していた。

徳永進『臨床という海』(看護の科学社)

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