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午前中は会議。午後から原稿整理。とりあえず1本まとめて送る。18時過ぎになってしまった。18時台でも丸の内線,山手線ともにかなり空いている。高田馬場でブックオフに入る。1週間ぶりくらいかもしれない。目にとまった本はなく,そのまま駅に戻る。家に帰り,MacBookAirを立ち上げ,少し仕事。夕飯をとり終った頃,インスタで下津×マヒトゥのライブ配信が始まった。だらだらと見ているうちに0時過ぎになる。

書くことがないなあと思っていたら,ひらがなについて思い出した。

たぶん30歳くらいまでは,漢字とカタカナを用いて文章を書くことが,きちんとした文章になる近道だと思っていた気がする。『アルジャーノンに花束を』を読んだのは,その後,かなり経ってからなので,あの小説の影響ではない。谷川俊太郎の詩を読んだこともあったはずだけれど,それで思っていたことは変わらなかった。

子どもの頃から江戸川乱歩の小説は繰り返し読み,意外と漢字が使われていないことに気づいたのは,いつ頃だっただろう。20歳前後だったかもしれない。気づきはしたものの,だからといって思っていたことは変わらなかった。

30代に揺らいだそれまでの先入観が,21世紀に入り,自分で文章を書くというか打つ時間が長くなるにつれ,少しずつ変わった。ひらがなへの抵抗感がなくなってきたのだ。気になっていたのは,漢字やカタカナを多用することではなく,文章のリズムであったり,描写だった。もちろん文章の優劣じゃなくて,巧拙という意味でだけれど。

40代を過ぎ,50代に入ると,原稿を整理するときにも,漢字をひらいてしまうことが多くなった。ひらがなにしたからといって,以前のように気にならなくなった。それで,示された意味が変わるとは思えないし,まあ,変わらないのだ。

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