演奏

帰りに中野で家内と待ち合わせる。中野ブロードウェイ4階の,以前は大預言だったまんだらけで均一本4冊購入。家内と買い物をして,夕飯は新井薬師前駅の駅前のとんかつ屋。30年前,上高田のアパートに住んでいた頃からやっている店で,にもかかわらず,これまで入ったことがなかった。ふつうのとんかつ屋だった。中井から帰り,「刑事コロンボ」を見て,眠る。

で,エイドリアン・ブリューだ。

なぜ,エイドリアン・ブリューはステージ上でニコニコするのだろう。こんな音,あんな音が響くのがうれしいのだろうか。1980年代,我々は,喜びを表現されることに慣れていなかった。表現されても,どう受け取ってよいのかわからない。

その頃,忌避されたものには,一生懸命とか汗水たらしてとか,ブルースやジャムとか,いくつもあって,世界は狭いに越したことがないという感覚は,そうした諸々とともに生まれたのだろう。

リズム&ブルースなんて,ネタとして扱う以外,聴く術がなかった。ジャズミュージシャンは演奏中,楽し気しているように思えたので,これも聴かない。フュージョンなんてもってのほかだ。つらそうに,もしくは怒りを込めて演奏されるフュージョンがあるなら聴いていたかもしれない。クラシックにはまだ,怒りやつらさを感じることがあったので,少しは手を出した。

という按配で,我々は世界を思いっきり狭くしていた。そのなかでP-MODELに引っかかった。楽し気に演奏しないミュージシャンになびいていった。今に比べればまだ多かったとはいえ,当時も演奏とたのしさを切り離すバンドはあまりいなかった。パンクやメタルバンドにはたのしそうな演奏をあまり感じなかったものの,どこか人柄のよさが透けてみえてしまう。それはよいはずなのだけれど,初めて会う人ととの別れ際に放つ捨て台詞を用意しているといわれた矢作俊彦よろしく,やっかいさを抱えたミュージシャンのほうが,なんだかおさまりよく感じられたのだ。

90年前後になると,我々が「いい人ポップス」と揶揄したような曲が巷にあふれだした。このあたりで,ようやくたのしさの呪縛から解き放たれたのだ。あれだけ能天気だと思っていたアメリカのカルチャーの病的さが,たのしさが抱える狂気を伝える。ザ・ビーチボーイズの楽し気な様子は,決してたのしさとイコールでなかったことに。「いい人ポップス」は大嫌いだったものの。

なおさら,90年代に入り,ステージ上で楽し気に演奏する平沢のバックバンドからは,たのしさとイコールな感じだけが伝わってきて,これじゃない感がひたすら増していった。

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