演奏

相変わらず暑い。雑誌の白焼きチェックの前に,単行本の付き物データアップ。印刷所の編集者やフリーのDTPに仕事を依頼しているから何とかなるものの,体制は少し検討したほうがよいな。

16時過ぎに終え,下落合の山ゆりでコーヒー豆を買って帰宅。ぐったり疲れてしまい,19時過ぎまで眠ってしまう。STORESに数冊アップ。定期的にこれを続けないと,もともと動きがほとんどないサイトなので澱んでしまう。家内,娘も帰ってきて夕飯。

久しぶりに本サイトへのエントリーをチェックしていたら,80年代の音楽について,少し整理できた。大仰なことではないものの。以前に比べると自分が書いた内容をすっかり忘れている。

私たちにとって,演奏を見聞きする「たのしさ」は,いわゆる「楽しさ」とイコールではなかった。「たのしさ」と「楽しさ」のなにが違ったのだろう。はじまりをエイドリアン・ブリューにしてしまうと後が続かない。にもかかわらず,エイドリアン・ブリューはいくつかの点でこのことを考えるとき,わかりやすいミュージシャンだ。

プログレファン,クリムゾン中耳炎患者が1981年,新制キング・クリムゾンのスタートにあたって,とにかく「エイドリアン・ブリューさえいなければ」と火焔をあげたと今日まで伝えられているのはたぶん誤りでない。「ロッキン・オン」「フールズメイト」はもちろん,「音楽専科」やいくつかの音楽雑誌からは正面切ってとはいえないものの,そうした雰囲気が伝わってきた。平沢進は「ロバート・フリップとエイドリアン・ブリューを似たタイプのギタリストだ」などと見誤ったコメントを出し,四本淑三は「あれはギターが鳴っているのではなく,エフェクターが鳴っているのだ」と書いていた気がする。そうしたノイズを差し引いてなお。

今世紀に入ってからのように,手軽に同類のタッチを共有する術はなかったにもかかわらず,キャラクターとしてのエイドリアン・ブリューを容認することが我々にはできなかった。

キャラクターなのだ,結局。ステージ上で両手で丸をつくりながら「あ・か」というやいなや“RED”の出だしが奏でられることに,私たちは慣れていなかったし,それを容認できなかった(1981年,そんなことに慣れている奴がいたとしたら,そっちのほうがいかれているというものだ)。もちろんたのしめなかった。ところがステージ上のエイドリアン・ブリューはやたらと楽しげに演奏する。「楽しげな演奏」というやつが大嫌いな人間が集まったかのようなプログレ界隈で――少なくともそれは少数でなかったはずだ,楽しげな演奏,高度なテクニック,妙ちくりんな音楽は,水と油のように感じられた。

と書きながら,坂本龍一の反戦フォークソングに対するコメントを思い出す。いわく,歌詞が反戦を指す意味はわかるにしても,そこで奏でられる音楽に反戦を感じたことがない。反戦音楽とはどういうものを指すのだろうか。

それを1980年代に置き換えてみると,私たちは,音楽で楽しさを伝えられることは大嫌いだった。楽しさを伝えるために,楽しそうに演奏されることも大嫌いだった。で,P-MODELのライブに足を運ぶことになるのだ。

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