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起きたら高橋幸宏さんの訃報。「まさか」を本人の声で再生してしまう。

裕一は高橋幸宏ファンというか,その作品をなぞるかのようにして創作に当時,勤しんでいた。彼が声をかけてつくった自主製作カセットテープを聴くと,ほとんどが高橋幸宏のボーカルスタイルに影響を受けたものだった。その頃,ある種の界隈ではあたりまえだったとはいえ,それは一般化できるようなものではもちろんない。SNSなどの遥か手前,にもかかわらずある種の壁をもつ同士はつながるものだったのだ。

1985年の秋。学校の教室を借り,ディスコと称して曲と映像,ライブを1日かけてやったことがある。言い出したのは裕一だったはずだ。われわれは同意し,ゼミの担当に形だけの顧問を頼み込み,手続きを終えた。

PAとモニターをレンタルし,前日の夕方過ぎにはセッティングが終わった。外に面したガラス窓すべてに黒い模造紙を貼り,発光するモニターを徹のスイッチングでライト代わりにする。前日だっただろうか,裕一が六角ドラムとキーボードのセッティングを終え,いや違う。企画が終わった後のことだった。裕一はシンセとドラム,オープンリールを回し同期をとってYMOのコピとオリジナルを演奏した。そのとき聴いた「中国女」は,正直,YMOが演奏するものよりも恰好よかった。何度か繰り返し,最後にはオープンリールを回しながら,シールドのついた六角のスネアを抱え,スティックで打ちながら踊ると何ともたのしかった。たぶん,私がロックにリズムを意識したのはあのときだった気がする。

高橋幸宏は後に暗黒期とさえ称される(最初の)東芝時代を迎える。すでに社会人になっていた私は裕一と,小原礼のライブに出かけた。中野サンプラザだった。2階席だったので,直近にチケットを買ったのだろう。たぶんP-MODELのライブ帰りに決めたのだ。定期的に会うとしたらそれくらいしか機会はなかった。

それは不思議なライブで,観客のほとんどは後半登場するという加藤和彦,高橋幸宏,高中正義が目当てなのだ。反応からそれはあからさまだった。MCで小原自ら「後半出てきますから」のような自虐的なことを言っていた。

その後半になり,「ファンキー麻雀」のイントロとともにステージ奥から1ユニットがせりあがってきた。その後何度か目にする,今井裕抜きのサディスティック・ミカ・バンドだ。再結成ライブはいかなかった(チケットをとるのも難しかったし)ので,私が演奏する加藤和彦の姿をみた最後になる。

くるりを目当てに,赤い公園も出るというのでワールドハピネスに出かけたときのことはこのエントリのどこかに書いた。1985年にある種の界隈と体感した層は,30年後,規模が様変わりしていることに驚いた。次に出かけたときは能年玲奈がリードボーカルをとる「タイムマシンにお願い」まで聴くことができた。

それが5年以上前のことになる。

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