古本フリマ

2月下旬の地域イベント期間中,日替わり古本フリマを開いた。週末の2日間は,各日2,3店の店主さんに声をかけた。初日は仕事をしながらの開店だった。

その前から,かなりタイトなスケジュールで下版して,そのまま古本フリマと発送準備が並行したものだから,古本フリマを終えてから疲れてしまった。期間中は,想定外のことが起きてたのしかったのだけれども,体力の衰えをなんだか感じた。

初日,「nice things.」を2冊並べていたものが,たぶん同世代の男性の手に渡った。最初がこれだったので,久しぶりに町中を歩く人の不思議さを感じた。続けて,伊丹十三の文庫が3冊売れる。そのあとは,仕事関係の方がいらして,神吉拓郎の文庫本が売れた。

2時間くらいの間,目の前で売れていく本がだいたいそんな感じだった。地域イベントのくるのは多くが中高年の女性で,その人たちからはあまり反応がなかった。一緒についてきた連れ合いがターゲットになる商いというのを何と呼べばよいのだろう。

2日目は,一箱古本市でお世話になった方や出店されていらっしゃる方,実際に古本屋を営んでいる方が参加されて,本式の古本フリマっぽくなった。事務所前ではスイーツやパンの販売も声をかけたので賑やかだ。いきおい,あれこれと対応することが少なくなく,この時点でかなり疲労がたまった。

3日目は仕事関係で古本フリマ。朝から雨で,人出はそれほどでない。午前中はのんびりと過ぎ,午後からお客さんがときどき覘きにくるようになった。お客さんが仕事関係の相談をされたり,店主さんのお友達が夕方からいらっしゃったりして,その話し声につられて本を覘く方もいた。

3日間でそれなりに本が動いた。4月には,みちくさ市が再開されるというので,少し準備をしておかなければと思う。

このところ

仕事やら月末の地域イベントに関連した作業などで慌ただしい。

仕事のスケジュールがかなりタイトで,なんだかんだで20ページくらいつくった。1月下旬には大丈夫かと思ったものの,とりあえずは入稿まで終える。その間に,2冊の単行本の作業もあり,加えて1本の企画は少しスピードを落とし,もう1本は印刷所の不手際を盾にとってもう少し伸ばす予定だ。

イベントへの依頼と告知用アイキャッチ作成など,細かな作業もあって,さらに自分のところでは動かせそうにない本を業者に買い取ってもらうため,ネットでやりとりをし,査定額を確認した後,カートに載せて池袋まで行き来した。ネット販売本の情報がGoogleと連携されたので,2月に入ってから注文がコンスタントに届き,その発送もある。

全体を俯瞰してみることなく,忘れてしまったものについては,思い出したときに済ませることにして半月くらいを終えた。

石津嵐の『宇宙戦艦ヤマト』をこの前,古本屋で見つけたので購入して読んだ。小学5年のときだっただろうか,この文庫を読んでしばらくして,風邪をひき熱に魘された。そのとき見た夢がまるまる石津版ヤマトだったことを今も覚えている。ヤマトが地球に帰っても蘇ることはないのだというのが,当時,本当にショックで,そんな物語でよいのかと感じたのだろう。

Decade

原稿を依頼し,編集・印刷して刊行する。”極めて心細い仕事を生業”にしているわけだけれど,30年以上のこの間,仕事を抜きにして面白く感じた原稿はそれほど多くない。仕事の上であれば,ほとんどの原稿に面白さを感じることができるものの。

東日本大震災の数年前,管理者経由で届いた原稿が面白かった。校正のやりとりのなかで,私自身の疑念が取り払われていくかのような感触を受けたことを思い出す。昭和60年代からこっち,広い意味での洗脳の手法が世間を跋扈するようになってからこっち,疑念は身を守る武器のようなものだった。その武器で身を守っていることを恥ずかしく感じるはないにしても,疑念を疑念として投げてしまってもよいかと思うくらいの,それは感触だった。

数か月後,あらたに連載がはじまった。後半,原稿が間に合わなくなることが2,3回あったものの,いまでも思い出す場面や表現がいくつもある面白い原稿だった。連載終了から間もなくして東日本大震災が起きた。数週間後,施設で公開勉強会が開かれた。西日本まで家内,娘と連れ立って行き,私は取材に入った。そのときの勉強会をもとに特集を組んだ。

さて次は単行本だというところで,企画がすすめられない状況になり,その領域で出版活動を積極的に行っている出版社で続けて単行本企画を受けてもらうことに了解を得た。私はステーションホテルでその旨を伝え,このテーマで企画できない当時の状況をなんだかなさけなく思った。

しばらくして羽曳野にある研究室で打ち合わせをして,あらたに企画がスタートした。2016年のことだ。何度も中断し,ついには受け皿がなくなったのを機に,これ以上続けられないだろうなとどこかで思ったことを覚えている。

昨年,その方から連絡があり,残っている原稿をまとめて刊行したいという。1時間ほど打ち合わせをして,スケジュールをざっくりと立てた。夏休み前にメールが届いたので,原稿が届いたのかと思ったところ,夏休みに家族で東京観光に行くので,食事をするよいお店を紹介してほしいという。すこしかみ合わない感じを懐かしく思い,返信した。

夏休みが終わったころ,にもかかわらず原稿は届かない。複数の著者による企画であったため,少しきつい文面で進め方について連絡をした。返信があり,病気が再発して治療に入る。症状が落ち着けば執筆できそうだと,そのメールには書かれてあった。

1か月くらい後,共同執筆者からメールが届いた。電話でお伝えしたいことがある。吉報ではなかった。12月に入り,3人でメールでやり取りを何度かした。在宅での緩和ケアに入り,それでも症状が落ち着いたら執筆できそうだとのメールが最後になった。

先日,共同執筆者から電話があり,メールはもとより,電話でも,大阪へ出かけても,返事が届かないところに行かれたことを知った。

思えば,私生活について話したことはほとんどなかった。聞こうと思わなかったのは,それが仕事をすすめるうえでのルールだと,どこかで感じていたからだとう思う。羽曳野に行ったときだったか,入院していたのだとちらっと聞いたことはある。それでも病名を尋ねることはしなかった。すればよかったのだろうか。よくわからない。

ふたたび「遅すぎる」,あの感覚が首をもたげてくる。

Chilli

「時をかけるな,恋人たち」からChilli Beans.を聴くことしばしば。赤い公園から流れてきたファンがいると読み,なんだか腑に落ちる。曲を短く完結させるあたりが似ているのだろうか。

赤い公園で唯一,趣味に合わなかったのはギターの音色だった。Shibuya AXで初めて見たとき,ビジュアル系にみられる曲のバラエティさ具合に似ていると感じたのはたぶんギターの音色にひっかかってのことだったはずだ。赤い公園に比べるとChilli Beans.のギターの音色にはしっくりとくる。

Chilli Beans.の曲のバラエティさはどこか80年代の洋楽のバラエティさを思い出させる。「シェキララ」を初めて聴いたとき,ネオアコっぽいなと思った。リフのツボがネオアコっぽい。

ネットで検索しながら,仕事の合間に聴いているのだけれど,なんだかあぶなっかしい感じを含めて,面白いなあと思う。こんな感じのバンドを面白く感じることはほとんどなかったのだけれど,踊ってばかりの国を経由することで,妙な縛りがなくなったのかもしれない。

Changes

11月くらいから営業の仕事を本式にしなければと,創業2期を終えて,ようやく思い始めた。

営業するにもモノをつくる前ならばまだしも,定期的にモノはできあがるのにもかかわらず,手が回らなかったというか,花井カオルのような自信だけはあったのだ。

ところが,生業にはなにがしかの営業が必要なことをようやく感じ始めた。多重なことは過大だから,このところ,営業に関する仕事でほぼ一日は終わっていた。カオルのような自信だけはくじかれずに残っているのだけれど,結果はまだついてこない。

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