クリスマスの思い出

カポーティの小説を読むまでもなく,子どもの頃,また親になってから,クリスマスの思い出は積み重なっていく。

夏葉社の新刊『ふたりっ子バンザイ』(石亀泰郎)を眺めながら,4つ下の弟のことを思い出した。『ふたりっ子バンザイ』に映っているのは年子の兄弟だけれども,こんな場面があったなあと,ページを捲るたびに記憶が蘇ってきた。

ある年のクリスマスの日。北関東の12月末は,それはそれは寒い。しかし,子ども2人で留守番しているときにストーブは危ないので炬燵だけで暖をとりながら,買い物に出かけた母親の帰りを待っていた。父親は仕事に出ていたのだろう。なんともさびしい夕方で,その日は日曜日だったから,テレビをつけて「笑点」を流していたものの,窓の向こうの縁側があらゆる愉しさを封じこめてしまうかのような存在感で他を圧倒していた。そこには誰もいないにもかかわらず,見知らぬ人が今にも飛び込んできそうな感覚なのだ。

弟は幼稚園,私は早生まれなので小学4年生だったと思う。その日は喧嘩になるような遊びをすることもなく,2人で母親の帰りを待った。ふつうは買い物に連れていってくれるのに,どうしたわけかその日は母親ひとりで出かけた。唯一の望みはクリスマスプレゼントだった。日が落ちて,部屋の電気を点けたものの,あの日,居間に暖かさが欠けていた理由は何だったのか思い出せない。

弟と2人で,どんなプレゼントがもらえるか,それでも話し合っていたような気がする。そうでもしないと時間が続かないようで不安だった。話し合いも,だから愉しいものではなかった。

母親が買い物から帰ってきたのは,18時半を過ぎていた。その日,私と弟がもらったプレゼントが何だったか記すことはない。ただ,プレゼントを見て,母親に非道い言葉をはいてしまったことだけは忘れたくても忘れられない傷のようにいまも私にまとわりついている。

自分が親になってから数回目のクリスマスの夜,娘のために買ってきた,というよりも,それくらいしか買えなかったプレゼントがある。あのとき娘から,私が母親にはいた言葉を投げつけられたとしたら,強烈なダメージを負っていただろう。いまとなっては,それくらいわかる。

神を忘れて、祝へよ X’mas Time

作詞 鈴木慶一、作曲 高橋幸宏

戦車の中で眠る 声のない人たち
避暑地の砂にすわり 身を焦がす人たち

暑い国も 凍える国も
血を流す民も それぞれの

神を忘れて祝へよX`mas time
ひとりひとりが 愛となれよ

教会で誓いあった 愛のない友だち
墓石の下で眠る 罪のない友だち

強い者よ 懺悔する人よ
逃げまどう民よ それぞれが

神を畏れて 祈れよX`mas time
ひとりひとりが 神となれよ

西の神や 東の神や
砂漠の神たち それぞれが

神を忘れて 祝へよX`mas time
ひとりひとりが 愛となれよ

愛を見つけて 祝へよX`mas time
君と ぼくとが 愛になるよ

忘年会

なんとか年内配本に間に合ったので,印刷所の人と2人で忘年会。といっても,新刊の印刷所の人ではないのだけれど。昨年はもう少し早い時期に4人で飲んだ記憶がある。

入れるかどうか心配だった和来路に席を確保できた。全体に賑わっていて,よい雰囲気の居酒屋だな。中井の権八に少し似ているものの,和来路のほうが入りやすい。

生ビールに鯵,イカの刺身,骨せんべい,牛スジ煮込み,おでん,惣菜2品などなど。途中から日本酒の熱燗に変えて2本。仕事の話がほとんどだったけれど,22時までかなり酔っぱらいながらあれこれと。

斎藤貴男『報道されない重大事』(ちくま文庫)を捲っている。10年前の出来事への論評が古くなっていないことに驚く。

死民と日常

(「水俣1」「水俣2」「水俣3」から続く)

出張中,無茶苦茶やわらかい島田一男の『銀座特信局』(春陽文庫)で頭まで緩くなったものだから,途中までで止まっていた渡辺京二『死民と日常―私の水俣病闘争』(弦書房,2017)を一気に読み終えた。仙台で,帰りの車中用に,それこそ島田一男の他の文庫だとか森村誠一の『新幹線殺人事件』だとかに目が行ってしまったものの,さすがに続けざまに読み返すのはまずいと思ったのだ。

『死民と日常』の「Ⅰ 『闘争』のさなかで」は1970年から73年に書かれた論考などの再掲。とにかく,このあたりは読むのにかなり苦労した。目の前の状況が日々変化していくなかで,定点をもつことはむずかしいだろうし,仮に定まった点を示したとしても,その後の40年間を経て,言葉が軋んでもしかたあるまい。

当時の渡辺は,表現について「石牟礼(道子)さんが記すように」とすることが多い。『苦界浄土』はすばらしい文学なのだろう。水俣病の歴史的な重さが前面に出てしまうため,石牟礼道子の文章――たとえば海ひとつ描写するにも,読む者がうっとりしてしまうように描かれる――については,あまり一般化されていない気がするけれど,水俣病を避けてなお,そこにある表現について誰か指摘しないかと思う(すでに評価されており,私が知らないだけかもしれない)。

そのくらいに石牟礼の表現力はかなりすごいので,結果,そこで描かれる患者が,まるで聖人であるかのように伝わってしまいかねない。吉田司がしばしば行なった石牟礼批判は,つまるところ「表現によってフィクション化してしまう被害者の生活」に尽きるのだろう。

1980年代後半,平沢進の調子が戻ったときのあるインタビューに,「『平沢は食事もしなければトイレにも行かない』ような,ファンがつくりあげたイメージに押しつぶされた」とめずらしく心情を吐露するかのような発言があったことを思い出す。

「Ⅱ あの『闘争』とは何だったのか」に入るととても腑に落ちてくる。特に1990年の講演「水俣から訴えられたこと」は面白かった。話の肝は以下のくだりだろう。

 水俣病闘争って何を患者が訴えているのかということね。
(中略)
 それが何かってことはね。まっとうな世の中のね,正義ってものを求めたんでしょうねえ。その正義っていうのは何もさ,修身の教科書に出てくるような,背中がピーンとしてせせこましい,そういう正義じゃない。それは人情と言い換えてもいいんだけども。要するに地域社会でですね,地域社会っていろいろあるわけですよ,もうたまらんようなこといっぱいあるわけなんで。だけど地域社会で実現されてる一番いい部分ですね。日本の庶民の道徳ですね,原理ですね,最低限の規範ですね。つまり人と人が何で一つの部落という社会を作って住んでいけるのかっていうことなんですね。人と人を繋ぐものは何かっていうことですね。それによって自分たちがは規定されている。自分たちはそれさえあれば救われる。ところがチッソはどうか。チッソにそれを見せてほしいわけですよ。見せてくれない。同じ人間同士としてですね,同じ人間同士で,自分は当然こうだと思うことがどうして通らないのか。なぜチッソはそのことを認めないのか。どうして世の中がこれを認めないような世の中なのかってことです。

 ですから根本的にはですねえ,やはり人間がお互い共同性ということでね,お互いの共同性の繋がりで信頼しあって生きていける世界ということでしょうね。共同的な社会は現実にはいろんなもう大変で嫌なことあるわけですよ。そこでちゃーんとした当然の道理が通る,そういう世の中をですね,求めなはったんですよ。世の中ってのはおかしいけど。そういう生き方を求めなはったわけです,チッソに対して。

品川

年末年始に打ち合わせが続く。年明けのみちくさ市は参加したかったものの,前日の午前が大阪,午後が京都で打ち合わせになり,下手すると日帰りでは済まなくなりそうなので,見送ることにした。

夕方から品川で打ち合わせ。18時ともなると帰宅する人の群れで非道いことになっている。

数年ぶりに西口を降り,ウィング高輪って,品川プリンスホテルはどうした状態で,打ち合わせ場所を探す。夕飯の時間になので,食事をとりながら打ち合わせになる。22時過ぎに終わった。JR品川駅構内のタミルズでビールをハーフパイントとチーズで休憩。

家に着いたのは23時過ぎ。

仙台

30歳を過ぎるまで,那須から北を訪れたことはなかった。郡山,秋田,盛岡,八戸,仙台に足を踏み入れたのは東北へ出張するようになってからのことだ。出かけるのはほとんど秋から冬にかけてだったので,東北というとなおさら「寒い」イメージとしかつながらない。

東日本大震災後,季節を問わず仙台から石巻あたりに年,数回出かけるようになった。幕末からこっち,東北地方が経てきた歴史がようやくイメージできるようになったのもつい最近のこと。北杜夫の小説やエッセイを通してしか仙台を知らなかった時期に比べ,出かける前になると何だか気が重くなるのはそのせいかもしれない。

土曜日は都内で一件取材が入っていたので,夕方から仙台に入った。ジャニーズ関連のコンサートがなくとも,学会ひとつで市内の宿泊施設がほぼパンクすることは経験から知っている。とりあえず押さえたカプセルホテルで一夜を明かす。

酔っ払いのグループが夜中に帰ってきたり,鳴りやむことのないスヌーズのおかげで2時過ぎに目を覚ましてしまい,小一時間,眠るタイミングを逸してしまう。シャワーを浴びて,駅ビルでモーニングをとる。

地下鉄を使うか迷ったが,駅からタクシーで会場に向かう。広瀬川を越える少し前に古本屋の看板が見えたので,帰りに寄ろうと思う。

午前中からいくつか打ち合わせ,取材が続き,午後早めに会場を出た。行きの道順で歩いて帰ることにした。川を渡り右手の看板をたよりに古本屋をめざす。尚古堂書店が見えたものの11月末で店を畳んだという張り紙。しかたないので,そのまま駅の方角に向かう。昼食をとっていなかったので,近くにみつけたカフェに入る。1TO2 BLDGの1階にあるMUGIでランチを頼み,2階で食べる。いい感じのつくりで,マフィンも美味い。この建物のサイトがいまどき,めずらしい動画をあしらったもの。今年の9月にオープンしたようだ。仙台の風は強く,気温も低いのでしばらく休む。

くるときにブックオフの位置を確認しておいたので,駅に行く前に覗く。御厨さと美の『ルサルカは還らない』第1巻はじめ文庫を数冊購入して駅に戻る。

家に土産を買ってから,新幹線のチケットを購入。改札を入ったところにある日本酒の立ち飲みやで一杯飲んで新幹線に入る。ザンギをつまみにビールを飲みながら文庫本を読んでいたらあっという間に眠ってしまった。起きたのは大宮のすぐ近く。池袋でコーヒーを飲んで酔いをさまして帰る。

島田一男の『銀座特信局』(春陽文庫)を携えてたいので,行きの車中から何十年ぶりかで読み返した。新聞記者を主人公にした推理小説のトリックとしては致命的なあり得ないミスがある作品だけれど,島田一男の事件記者ものはワイズクラックをたのしむようなものだから,結局のところおもしろかった。

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