記憶

その彼が森田童子の作品のどこに惹かれたのか覚えていない。ただ,「夜中にひとりで聴いていると,おかしくなってきそうですよね」と同意を求められたことはあったはずだ。

芳弘はまだ地元の大学にいて,年に三,四回,手紙やはがきでやりとりをするくらいの付き合いが続いていた。実家に帰ったときは連絡をとり,長々と電話をしたり,時には本屋で待ち合わせて,そのままそこで話したこともある。その頃,喫茶店に入ることは少なく,だいたいが店で本やレコードを見ながら話したものだ。現役で地元の大学の教育学部に入ったはいいものの,早々に教職をとらないと決めた。教育学部で教職をとらないと,どれだけ大変な目に遭うか,一度,聴いた記憶がある。

芳弘は込み入った生い立ちなようで,だけれども当時から私はそういったことについて知り,自分がそれを抱え込んでしまう場所から距離を置くことだけには一所懸命だったので詳しい経緯を尋ねたことは一度もない。15歳のときに同じクラスになり,その後の10年ほどのなかで彼と話した時間が一番長かった。大学に入り,奇妙な友人たちと酸欠になるほど馬鹿話をした時間がおそろしい勢いで,その時間に迫ってはいたものの。

私にザ・ビートルズを勧め,ピンク・フロイドを聴きながら,ブルース・スプリングスティーンや佐野元春,それよりもなにも吉田拓郎を聴いていた。美術部で一緒になり,芳弘は後に脚本家になった智と趣味が共通していたものの,高校時代に似てるとはまったく思わなかった。

名字は違ったような気がするし,一度も会ったことがないけれど,芳弘には兄貴がいた。その影響からなのだろうか,当時のわれわれの世代にしてはめずらしく,芳弘は1968年から4,5年あたりの動きについて一通りの知識を持ち合わせていた。まあ,ザ・ビートルズの後期からジョン・レノンのソロ活動の最盛期だし,吉田拓郎を通して知識が補完されたのかもしれない。ただ,兄貴がいるからなんだろうなあと,私はときどき思った。彼は大人びていたけれど,それはレコードスプレーの匂いとか木目も家電製品とか,ピカピカになり得ない何かによるもので,たぶん昭和50年代の初めにそれらはピカピカでツルッとしたものにとってかわられたのだ。どこか現実感(ピカピカを現実感というのもなんだけれど)がともなっていないように感じた。

森田童子の曲,というよりも歌詞は,高校時代に学生運動にかかわった経験がもとになっているものが多いという。昭和50年代の終わりから60年代の初めにかけて,だからそれらの歌詞は,自分にとって現実感がともないはしなかった。夜,ひとりで聴いても,「翌日早いから寝よう」が先立った。

ところが,その後,数多のゲームや『バトルロワイヤル』以降,自ら手をくだすことなく,他人を競い合わせた果てに死に追いやる関係性(といっていいのかどうか)が幅を利かせはじめた。中上健次原作の映画「軽蔑」にも同じような場面があったから平成になってから始まったことではないかもしれないが,目立ち始めたのはここ20年ほどのことだと思う。

あのダブルバインドを変形させたようなたちの悪さに心底辟易し,思わず「へっ」と口に出てしまうとき,ふと森田童子の歌を思い出すことがある。

図書館

雨が降っていないと思い,傘をもたずに家を出た。ポリポツリと雨あしがきになったが,一足遅れて出てきた娘と一緒になり,傘に入れてもらった。夕方,会社を出るときは本降りだった。永福町まで校正を届けた。いつもは明大前に戻り新宿経由で家に帰る。たまには吉祥寺まで行ってしまおうと思った。

吉祥寺に着いた頃,雨はほとんどやんだ。古本センターを覗き,そのままバサラブックスまで行く。雨のため,店先の均一棚は屋内にしまわれていた。さっとチェックし,あとは店内の棚を覗く。ポール・オースター『ガラスの街』(新訳のほう),神吉拓郎『夢のつづき』(文春文庫)を買って駅に戻る。

家内,娘と待ち合わせしているので,東中野で降り,歩いて駅前まで。先に家内と二人で店に入り,1時間ほどして娘がやってきた。

遠藤賢司の訃報。リアルタイムで聴いたのは「オムライス」が最初だったと思う。当時,細野晴臣がNHK-FMのDJをした特番で,遠藤賢司の特集があった。スタジオライブで,「オムライス」と「カレーライス」「満足できるかな」あたりを演奏した記憶がある。「オムライス」以外は別の番組で聴いたのかもしれない。久しぶりにYoutubeで「オムライス」を聴いたら,ドラムパターンが当時,細野晴臣作でしばしば用いられたパターン(YMO「CUE」,戸川純「夢みる約束」あたり),間奏のギターがとてもよかった。

矢作俊彦の「週刊新潮」長期不定期連載の第三回が掲載されたので,連載を読んだあと,全体にざっと目を通した。同社社長の発言が発端になった図書館に文庫本を置くかどうかの話題がとにかく多い。矢作俊彦の連載もこのテーマについて述べられていた。

図書館で文庫本を借りるという感覚が理解できないので,この小競り合いに述べることなどほとんどない。ただ,図書館について話題にするならば,宿泊(夕食とベッド付)サービスの充実を,というのが先のような気がする。

ときどき宿泊できる書店について話題になるけれど,書店に泊まってどうするのか,今一つ理解できない。書店は本を買う場所で,本を読むならば図書館だろう。優秀な司書がいて,夕飯が美味くて,宿泊できればいうことない。ときどき,ペンションなどで蔵書を公開しているところがあるけれど,規模が小さいし,初手から宿泊の目的が本を読むためではないのだから,いくつかあるサービスの1つ程度の位置づけだ。

パークハイアット東京に泊まったときのこと。宿泊者へのサービスとして図書館のようなフロアが確保されていたことを覚えている。イメージとしてはあれに近い。ただ,宿泊+夕食は従で,主たる役割は図書館だというのが違うのだ。

で,「記憶」の話を続けることをすっかり失念してしまった。とりあえず次回に。

記憶

「記憶」なんてタイトルで書いたならば,結局このサイトに残っているものはすべて記憶なんだけれど。

久々に雨風は止んだ。とはいえ雲が切れない一日。「森田童子」を検索したプロセスはまったく忘れてしまった。「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」という字面を眺めると,学生時代の記憶が蘇ってきた。

一連の投稿を読んでくれていた人から初めてダメだしされたのは,「秋刀魚の味」と題をつけて記したとき。14年前のことだ。SNSと似たようなしくみのサイトを使い始めてから数か月が経ち,その記憶を書き連ねたのには,すっかり忘れてしまった何かきっかけがあったのだと思う。ただ,抽斗のなかのネタを使い尽くしてしまっただけだったかもしれない。

投稿内容は広く目を留まる内容ではないため,当時,週に数回アクセスしてくれるのは4,5名の決まった人だけだった。15年以上経っても,この人数だけはほとんど変わらない。その頃も80年代のことを中心に書き留めていたのだから,これもあまり変わっていない。

このときの投稿に登場する人から借りたカセットテープ,あの夜,その人のアパートでごはんを食べながら聴いたのが森田童子の「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」だった。音楽のことをあれこれ話したにもかかわらず,彼がどのようにして森田童子を聴きはじめ,ファンになったのかを尋ねた記憶がない。昭和60年代が始まったばかりとはいえ,その頃,森田童子の名を音楽ファンの口から聞くことはほとんどなかった。私はレコード店でジャケットを目にしたことがあるものの,曲は高校時代の友人が兄を経由して聴いていた数曲を知っている程度だった。ニューウェイヴの波はどうにか続いていたので,フォークにカテゴライズされる曲を聴く気はなかった。

借りたカセットテープは聴いた。鐘だったかのエコーは,その後,グレゴリアンチャントが流行った頃,音の感じが似ているように思った。P-MODELの“Perspective”以降,ロックでもゲートエコーとは違い空間を使ったエコー処理が盛んな頃だったので,そこだけは面白かった。ただ,歌詞や曲については一線を画したい感じが先立ってくる。(長くなりそうなので次回につづきます。)

台風一過

台風はまるで「世界タービン」。夜半から朝方にかけての雨風は凄かったようで,娘は地震のように感じたという。私と家内はまったく気づかず,朝まで眠っていたものの。

そのせいか,朝から不調で,早めに会社に着いた。ただ,18時過ぎには退社してしまった。早めに夕飯を食べ寝てしまおうと思ったが,結局,降りたのは高田馬場。ブックオフで池内了の洋泉社新書を買い,北口から東に向かって歩く。

神田川沿いの材木所の裏側まできても食べる店が決まらない。明治通りに出て,目白に向かって少し歩く。左折した通りに昔,タイ料理屋があったことを思い出した。ところが店の跡も見当たらない。しかたなく新目白通りを渡って,病院の裏手から神田川を再び渡り,生地の厚いピザが売りの店の向かいあたりにできていたビーフシチューの店に入った。

ビールとのセットを頼み,野球中継を見ながら,ときどき本を捲る。ビーフシチューは美味いが,これといって特長があるというわけじゃない。広島の攻撃の途中,30分ほどで食べて店を出た。急な階段の坂を登り早稲田通りまで出て,駅の方向に歩く。もう一杯どこかでやってから帰ろうという気分になり,店を探すが,ここでも決まらない。しかたなく久しぶりにマイルストーンに入った。ウイスキーのロックを頼み,いつものように古本の棚を眺めた。小野俊太郎『社会が惚れた男たち 日本ハードボイルド40年の軌跡』(河出書房新社)を購入。すっかり忘れていたが,ここはオーダーすると古本が100円引きになるようだ。会計のときに100円引いてくれた。

ジャズを聞きながら,読み始めた『闇の中の黄金』を捲る。少し眠くなり,腕を組んで音楽を聴いているようなふりをして数十分くらいうとうとした。22時前に店を出て,さかえ通りを経由して歩いて家に帰った。

早く眠るつもりが,結果,いつものようになってしまった。

台風

金曜日は午前中,渋谷に直行で打ち合わせ。一度会社に戻り,永福町に校正をもって伺う。台風が近づいているため,夕方から風に流されるくらい細かな霧雨が落ちてきた。高田馬場で家内と待ち合わせて夕飯をとる。雨が強くなった。

土曜日は仕事をするはずが,調子も天気も悪いので家にいて部屋を片づけた。夜は新宿で待ち合わせて,紀伊國屋書店の地下のカレー屋で食べる。寒いと思っていたらシャツ一枚で十分なほどの暖かさ。

日曜日は午前中から会社で仕事。台風が本式に近づき非道い天候の衆議院選挙日。投票を終え,高田馬場でモーニング。池袋西口公園の古本まつりに寄ろうと思っていたら,昨日今日と中止だという。この天気ではしかたない。15時くらいに終えて,池袋で遅めの昼食。夕飯を買って帰ることにしていたため,時間潰しに東口のブックオフへ。ここ数回,寄っても買う本が見当たらなかったのだけれど,石ノ森章太郎『遊びをせんとや生れけむ』,玉村豊男『パリの旅雑学ノート』『ロンドンの旅雑学ノート』,斎藤貴男『ルポ改憲潮流』,三枝博音編『三浦梅園集』を計900円と少しで。近くのドトールで休憩。『闇の中の系図』を読み終えた。夕飯を買って家に帰る。

選挙結果に驚きはないものの,大塚英志が語った「選民思想」(以前,そのことについては書いた)を思い出した。

『闇の中の系図』の一節。

与党は野党に言うだろう。たしかに企業から大金をもらっているが、お前たちだって労働者から資金を集めているじゃないかと。昔ならこれは闇の中でいう台詞だった。労働者っていうのは、つまり名もない庶民だ。国民だ。そういう人々のために働くのが政治家だという建前があった。だから、お前たちだって労働者から金を集めているじゃないかという言い草はないはずなのだ。自分たちも一人一人から集めた金で動けばいい。そうだろう。ところがそれはしない。企業から集めたほうが楽だし効率がいい。手っとり早く金を摑めるほうが勝つわけだし、だからこそずっと与党でいられたわけさ。いつも負けるほうは一人一人から会費をとっている。いつも勝つほうは一人一人に金をやっている。勝つのがあたり前だ。でもこれではいけない。

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