週末

金曜日の昼。急遽,K先生が夜の懇親会に参加するとの電話。社長に確認すると,まだ店を決めていないという。「ホテルの下に適当な居酒屋があるみたい」。世は忘年会シーズンが始まっているし,金曜日の夜ともなれば混んでいるだろう。

昼過ぎから東京駅,神田,秋葉原,御徒町まで広げて適当な店を探したものの,連続して5軒に振られる。宿泊先が秋葉原だとういので,当初から検討リストから外しておいた,駅前の和食居酒屋に連絡してみた。とりあえず2時間であれば個室が確保できるという。すでに14時をまわっていた。待ち合わせは18時だというのに。あぶなかった。

秋葉原はまだ雨が降らず,とりあえず待ち合わせて駅前の店に入る。K先生もすぐにやってこられて,6人で2時間あっという間に過ぎた。

帰りに今治からの先生2人をブックオフに招待というか連れて行き,店内で別れる。私は荒畑寒村の『谷中村滅亡史』と水上勉『ブンナよ,木からおりてこい』(新潮文庫)を買って帰る。駅前で一杯だけ飲み,家に着いたのは22時過ぎ。

土曜日は,午後から会社。週明けの消防点検に備え,非常口の前に山積みになったゲラを処分しなければならない。とりあえず,山を崩し,必要/不必要の分別をする。気がついたら18時になっていて,慌てて片づけ,池袋に。家内,娘と待ち合わせて,西口のベトナム料理店で夕飯をとる。

日曜日は午前中から出社。昨日の片づけの続き。とりあえず,めどがついた。

水俣

渡辺京二『死民と日常』は1/3を過ぎたあたりから面白くなってきた。

1974年の新春早々,水俣市の空は昏かった。水俣病の報道があってから10数年を経ており,学校に行く時間の前に流れていたテレビのニュースに映る患者・家族,支援者たちのいくつかの行動が報じられるのを何度か見たこともあった。昏いのは町の光だ。

すでにバブルに突入していた頃,宇都宮で一時,就職した芳弘がときどきつぶやいた「町の昏さ」に思い出したのは1974年の水俣だった。

二世代,三世代を経た第二次産業従事者とその家族が,戦後,国内に戻り,工場労働者となる。その工場が発生源の公害。吉田司は“どこまでいっても餓死者しか生まないイザナギ”と書いていた記憶がある。だから渡辺京二が新書で昔日の日本の一部をまとめ上げたとき,ここに暮らす,すべての者に食い扶持を提供できた過去があるかのように“幸せ”をつまみとって示したことにかなり違和感を覚えたのだ。

水俣

買ったまま読んでいなかった渡辺京二『死民と日常―私の水俣病闘争』(弦書房)のページを捲り始めた。巻頭から順番に1971,72年くらいに発表された論考が載っている。後半には平成に入ってからの論考がおさめられているようだけれど,まだそこまでは辿りついていない。

読み進めながら,1980年代後半に吉田司の『下下戦記』が単行本にまとまって後,さらに旧満州国とチッソのつながりについての複数のノンフィクションが出て後,70年代の言説がもっていた論拠は“そのうちの1つ”になったのだなあとため息を吐いた。

渡辺京二自身,大連に動員された経験があるならば,70年代であっても水俣,天草,九州と中国大陸の関係について,もう少し視野を広げることは可能だったのではないだろうか。確かに水俣病の被害者の多くは漁業を生業にしていた方とその家族であった。しかし,戦前の家長制のもと,二男,三男に生まれたものが食い扶持をもとめて渡った中国大陸で(東北とともに九州からは多くの「長男でない子ども」が渡った),40年近くにわたり続いた南満州鉄道に関わった者たちは,その地で二世,三世を産み育てた。40年には,取り返しのつかない,それくらいのスパンがある。そうした家族は戦後,国内に引揚げてきた。引揚者の視点から水俣病を考えることは大切ではないかと思う。

祖父は満州で育ち,満鉄に就職した。私の義父は釜山から鹿児島に引揚げてきた。父親の生地で辛酸をなめた義父がそれと引き換えに手にした生活能力はさておき,祖父はまったくのサラリーマンであった。農民はもちろんのこと漁民としての心性など何一つ持ち合わせてはいなかった。家族はたまったものではなかったようだけれど,祖父は戦後,一度も定職につかなかったことを何度か聞かされた。

数年前,父の葬儀のときに集まった叔父・叔母と話してわかったことは,中国大陸でサラリーマンだった祖父には大陸で,ただの一回も農業の体験がなかったということだ。だから天草で家とともに裏山一帯を得たものの,そこにみかんが生っていても,それで生計を立てようとか,田んぼや畑をつくって生活していこうとか,まったく考えなかったのだ。「大陸で農家の経験なかったのかあ,なるほどなあ」。叔父・叔母は祖父の死後,40年以上を経て,ようやく戦後の祖父の暮らし方(のある部分)に意味づけすることができた。

戦前の植民地政策により,サラリーマンとして生活する層が増え,戦後,彼らとその家族は日本に引き上げてきた。彼らはサラリーマンとしての生活体験しかもたないまま,生家を頼らざるを得なかった。出て行かざるを得なかった生家に戻らざるを得なかったのだから,そこで何が起きたか,少し考えてみたくなる。

その年,船底を叩く波の音のなか,少しずつ近づいてくる水俣の町は,工場の煙でくすみ灰色だった。(続きます)

水俣

旧満州で生まれた父親が戦後,親に連れられて日本の定住先になったのは熊本県天草の下島だった。戦中,満鉄のサラリーマンだった祖父が送金して,すでに家は建っていたと聞いたことがある。子どもの頃,年に一,二度は天草に行った。

寝台電車だとみずほ,飛行機,一度は神戸からカーフェリーで別府に降り,阿蘇を越えて車で行ったこともあった。熊本市内から本渡までバスで2時間近く,父の実家まではそこからさらにボンネットバスで数時間かかった記憶がある。魚はふんだんにとれるものの,まず,実家の近所に小売店がまったくなかったのには難渋した。加工食品やお菓子,調味料は週に数回,巡回でやってくるスーパーがたよりだった。1970年代の初め,夏休みの一日,二日はたのしかったけれど,それから先,祖母がお寺の用事で本渡まで行くのについて,帰りのバスを待つ間に本屋やおもちゃ屋を覗きながら買い物するときくらいしかたのしみはなかった。

帰りは牛深まで出て高速船で水俣に渡った。親戚の家に挨拶をして,そこから電車で熊本まで出るのだ。

ある年の正月に父と実家に帰った。母親と弟が一緒にいた記憶がないので,妹が生まれる前後のことだったはずだ。牛深で船に乗る前に父親とどこかに出かけた。記憶では急な坂を登った左手にある教会に向かったことになっているものの,地図を捲っても教会は見当たらない。お寺に出かけたのだろう。その帰り,坂を降りたところにある古い食堂に入った。寒いので鍋焼きうどんを頼んだが,いなかの食堂でその手の注文するにはそれなりの覚悟がいる。なかなか出てこないのだ。

テレビを見る父親を横目にテーブルの下の放られた「週刊少年マガジン」を取り出してページを捲った。私はそこで初めて永井豪の「バイオレンスジャック」を見た。子どもの目にもうまいとは言えない,けれどもどうしたわけか迫力だけはあるその漫画に驚いた。

かなり経ってから鍋焼きうどんができあがったので,私と父親は口のなかをやけどしながら勢いよく食べて,船着き場に向かった。

高速船は水の上に浮いている感覚よりも,水面にぶつかっていく感覚のほうが強い乗り物だ。運よく波にぶつかり続けられると,船酔いは非道くないが,スピードが乗らずに波に揺られてしまうと,途端に気持ち悪くなる。

その日は,酔うこともなく水俣に着いた。(続きます)

週末

花粉症の舌下免疫療法をはじめてから,からだが少しだるい。胸のあたりにやや炎症を起こしている感じがするし,頭も少し重い。目と鼻にこない花粉症のような症状だ。眠気も続き,抗アレルギー薬を飲んでいるわけではないのに,からだがどう反応してよいのか戸惑っている感じがする。

金曜日は早めに仕事を終えた。帰りに高田馬場のブックオフで本を買い,10°Cafeで休憩。iPhoneでメールの返事を書いたり,届いた装幀のPDFを確認したり。ほとんど会社を出た意味がなくなってくる。

土曜日は夕方から打ち合わせがあるものの,相変わらず調子がすぐれないので,家を出たのは昼くらいになってしまった。一度,会社に行って何本かメールを打ち,東新宿に向かう。数年ぶりに降りたところ,駅直結でビルができていたり,医大通りもやや小奇麗になっていた。新宿御苑の手前にある喫茶店ドムで1時間ほど打ち合わせ。

終わってから近くのブックオフで本を数冊購入。歩いて西武新宿まで行く。セガフレード・ザネッティで生ビールとマリネを頼んで休憩。買い物に出ている娘・家内と連絡をとり,紀伊國屋書店で待ち合わせ。久しぶりに2階,3階の棚を眺めた。夕飯は南口に行き,昔からあるトルコ料理店に入る。10年近く前,昌己をはじめ数人で忘年会に来たような記憶があるのだけれど,中に入ると印象が違っていた。さらに二次会に流れた喫茶店というかバールのような店は見当たらなかった。ビルに2,3階にある薄暗く込み入ったつくりの店でボックス席中心に,骨董っぽい品々が並んだ,吉祥寺のモアに似た店だった。トルコ料理は江古田のシャマイムで供せられるイスラエル料理に近い味がした。

日曜日も午前中から打ち合わせ。用意をとりに一度,会社に行く。四谷で打ち合わせを終え,会社に戻る。からだのだるさが続くので,15時過ぎに会社を出た。家に戻り眠る。18時過ぎに起きた。夕飯をとって,早めに寝ようと思ったものの,なかなか眠れない。ここ数日,Amazonプライム経由でThe Beatlesの“Revolver”を聴いている。『寒村自伝』上巻を読み終えた。辻潤の年表をひっくり返したところ,寒村との接点がしばしばあるはずなのだけれど,ここまで自伝には大杉栄との関係でちらっと登場するだけだ。で,一緒に買った下巻が見つからない。1週間ほど前,本を整理したときに奥のほうに片づけてしまったのかもしれない。

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