つういん

夕方から東村山で打ち合わせ。1時間ほどの時間を見込んでいたものの,興味深い話をいくつも伺い,時間が伸びる。18時半から昨年末刊行したタイトルの打ち上げとかこつけて,デザイナーに声をかけて久しぶりに飲み会を予定している。18時に終え,昌己に連絡し,先に進めてもらうことにして10分ほど遅れて到着した。デザイナーはすでに来ていた。

その後,声をかけた他社の編集者がやってきて,3時間あまり。打ち上げの話はほぼなしに,あれこれ話しながら飲み続けた。中井には居心地のよい居酒屋がいくつもあるので,こんなときに重宝する。

昌己とデザイナーと別れ,川沿いのミートボール居酒屋に入る。ハイボールで1時間少し,続きなど。大江戸線の最終に遅れないよう0時少し前に切り上げ,他社の編集者と別れる。

当然,土曜日はほぼ使いものにならない。一度起きて,胃のなかに食べ物と水分を放り込み,再び横になる。なんとか14時過ぎに起き,事務所で少しだけ仕事を済ませる。家内と高円寺まで買い物に出かけて20時くらいに帰宅。

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そろそろ昨年の後始末に区切りをつけ,今後の企画などすすめる時期になったか,と。2週間くらいかけて,片づけのようなことを済ませてきた気がする。今年の半分の企画は済んでいるし(中に何を詰め込むかはさておき),単発の企画も,隔月ですすめるにしても,あと1冊詰めれば埋まってしまう。

寒い一日。午前中,編集者と打ち合わせ。12時前に終え,無事仕掛りの企画をお願いすることができた。午後から取次にでかけ,夕方帰社。ディクテーションソフトを試用して,昨年末の対談データをテキスト化する。おかげで,この企画もかなりめどをつけることができた。

出版契約書の雛形に手を入れ,20時から杉作J太郎のラジオ,「音楽殺人」特集を聴きながら,他の仕事を整理する。21時前に帰宅。

阪神淡路大震災から28年目を迎えた。昭和から地続きのような感触のあった世の中は,その被害とともに更地のようになった。そのから先のことに意味を見出すとともに,それまでのことを懐かしさを覚えるのは退廃なのだろう。

Fill-In

起きたら高橋幸宏さんの訃報。「まさか」を本人の声で再生してしまう。

裕一は高橋幸宏ファンというか,その作品をなぞるかのようにして創作に当時,勤しんでいた。彼が声をかけてつくった自主製作カセットテープを聴くと,ほとんどが高橋幸宏のボーカルスタイルに影響を受けたものだった。その頃,ある種の界隈ではあたりまえだったとはいえ,それは一般化できるようなものではもちろんない。SNSなどの遥か手前,にもかかわらずある種の壁をもつ同士はつながるものだったのだ。

1985年の秋。学校の教室を借り,ディスコと称して曲と映像,ライブを1日かけてやったことがある。言い出したのは裕一だったはずだ。われわれは同意し,ゼミの担当に形だけの顧問を頼み込み,手続きを終えた。

PAとモニターをレンタルし,前日の夕方過ぎにはセッティングが終わった。外に面したガラス窓すべてに黒い模造紙を貼り,発光するモニターを徹のスイッチングでライト代わりにする。前日だっただろうか,裕一が六角ドラムとキーボードのセッティングを終え,いや違う。企画が終わった後のことだった。裕一はシンセとドラム,オープンリールを回し同期をとってYMOのコピとオリジナルを演奏した。そのとき聴いた「中国女」は,正直,YMOが演奏するものよりも恰好よかった。何度か繰り返し,最後にはオープンリールを回しながら,シールドのついた六角のスネアを抱え,スティックで打ちながら踊ると何ともたのしかった。たぶん,私がロックにリズムを意識したのはあのときだった気がする。

高橋幸宏は後に暗黒期とさえ称される(最初の)東芝時代を迎える。すでに社会人になっていた私は裕一と,小原礼のライブに出かけた。中野サンプラザだった。2階席だったので,直近にチケットを買ったのだろう。たぶんP-MODELのライブ帰りに決めたのだ。定期的に会うとしたらそれくらいしか機会はなかった。

それは不思議なライブで,観客のほとんどは後半登場するという加藤和彦,高橋幸宏,高中正義が目当てなのだ。反応からそれはあからさまだった。MCで小原自ら「後半出てきますから」のような自虐的なことを言っていた。

その後半になり,「ファンキー麻雀」のイントロとともにステージ奥から1ユニットがせりあがってきた。その後何度か目にする,今井裕抜きのサディスティック・ミカ・バンドだ。再結成ライブはいかなかった(チケットをとるのも難しかったし)ので,私が演奏する加藤和彦の姿をみた最後になる。

くるりを目当てに,赤い公園も出るというのでワールドハピネスに出かけたときのことはこのエントリのどこかに書いた。1985年にある種の界隈と体感した層は,30年後,規模が様変わりしていることに驚いた。次に出かけたときは能年玲奈がリードボーカルをとる「タイムマシンにお願い」まで聴くことができた。

それが5年以上前のことになる。

1/13

発送の作業を午前中で終え,出稿用広告データをまとめる。昼過ぎに終わり,入金も済ませる。夕方に編集の方がいらして1時間ほど打ち合わせ。明日,机の下に敷くマットと会社のプレート(小さなものだけれど)が届くので少し準備をしておく。19時過ぎに事務所を出て,日高屋で少し休憩して,高田馬場のブックオフを覘く。文庫と雑誌を買って帰宅。食事の後,dynabookの調整を少しする。主にメールの仕分けあたり。

寒い。このところ笠井潔の『バイバイ・エンジェル』を読み直している。矢吹駆の現象学的直観というのはスピノザだなあと今頃気づく。

ネット上で記録をとりはじめてから今年で20年になる。10代の20年に比べると変化に乏しいとはいえ,短くはない。いつくらいから本の読み返しの時期に入ったのか,いつかチェックしてみたい。本を読み返すということは記憶させることで,外付けではない記憶のありかを裡に留めておくことだと思うものの,新鮮さばから先立って,これだけの本を最初に読んだときに数%でも多く覚えておいたなら,もう少し違った変化につながったのではないかと思うのだ。

dynabook

注文していたラップトップが水曜日に届いた。再整備品だから,見た目は少しへたれている。電源を入れ,設定を30分ほどで済ませる。初めてdynabookを使う。以前,知人が持ち運びに便利だからという理由でもっていたような記憶がある。

軽さに驚いた。MacBook Airよりも軽いくらいだ。13.1インチなので小体で,事務所で充電しながら使い,ACアダプターを携えずに,バッグに入れて家まで普通にもって帰ることができる。

LIFEBOOKのデータをUSBに移してから移動させる以外,すべきことはほとんどない。タッチパッドが1枚になっていて,見た目はMacっぽい。実際にはパッド下の方が左右に分かれてマウスよろしく反応するようになっていてMacとは違うのだけれど,これはこれで使い勝手がよさそうな気がしてきた。

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