ステージでシールドを抜く

メンバー2名のバンド,唯一のライブには,正月に飛行機で会場まで行くことになった。
田舎に帰った面倒見のいい裕一がプロデュースしたライブに飛び入り参加させてもらったのだ。昌己はベースを抱えて搭乗した。

担当パートの都合上,トランペット,キーボード,ギターが必要だった。ギターは,調律狂っていても,弦が3本でも特に問題ないので,友人の持っているものを借りることにした。トランペットとキーボードは先に発送しておいた。
裕一宅に行くと,置いてあったギターには弦が3本しかない。いくら問題ないからといって,本当にそういう状態のものとは。
とりあえずそのギターでリハーサルした。われわれは問題なかったのだが,さすがにプロデューサーである裕一は「いくらなんでも……」絶句した。
とはいえ,正月三が日に空いてる楽器店なんてあるだろうか。訝しがるわれわれを横目に,裕一のバンドメンバーが輪をかけて面倒見のよい人で,近場で弦を調達し,その上,かけかえてくれた。

さて,本番。
P-MODELの“FLOOR”をカバーした以外はオリジナルを演奏した。オーラスは,昌己の打ち込みテープにベースとギターのノイズが鳴り続けるというものだった。
何を思ったのだろう。記憶にないのだが,当日,「最後の曲のとき,片づけはじめるから」そう告げた。

当然,本番でも片づけはじめた。
音が鳴るなか,やおらシールドを引っこ抜いて丸めた。不思議なことにそれほどの音はしなかった。途中,「何でもいいから音出せよ!」昌己はいう。その声を聞きながら,エフェクターのスイッチを切った。

「どうも」挨拶の声がして,ライトが点いた。
舞台が妙に白々としていたことだけは覚えている。
最初で最後のステージだった。

当日のようすはビデオに収録されたそうだ。こんなところにも面倒見のよさは現れる。当然,われわれは,今日まで,そのビデオを目にしたことはないのだが。

ベース弾き語り(アンプラグド)

再開。

ベースの弾き語りを見たことがある。
立川駅のコンコース。もちろんEベースでアンプラグド。
弾いていたのは喬史だ。

立川南口にスタジオをとったときのこと。
某宗教団体信者と競馬親爺がきれいに左右分かれていたから,日曜日だと思う。
東京の東からやってきた喬史は,時間より早く着いてしまったようだ。やることは他にあるだろうに,よりによってEベースの弾き語りをすることはない。第一,音が聞こえないじゃないか。
改札を抜け,左手を見ると,見知った姿があった。
唖然とし,そして爆笑した。

以後,Eベースの弾き語り,アンプラグドという姿を目にしたことはない。一度も。

その日の練習が,思いのほかひどかったことを付記しておく。

禁を破る

この日記なるもの,とにかく今日のことは書かない,昔のことだけを書こうと決めていたが,今日ばかりは記さずにおれない。

なんと,ダディ・グースの単行本『少年レボリューション』が刊行されたのだ。 2,500円も高くはない内容。
編集者の仕事をあなどっていた。こんな企画を実現させるなんて,これはひとえに編集者の力技がならしめたところだ。
石森章太郎の担当者も見習え(現在流布している,サイボーグ009「地下帝国ヨミ編」「リュウの道」の原稿の汚さといったらない)と檄をとばしたくなる出来。原稿ないのに,ここまできれいに復刻するとは。
それに十二分に応える内容も内容。しばらくは堪能の日々が続きそうだ。調子が狂ってしまった。いやはや。

一言

途中の一言が,緊張感を削ぎながらもインパクトをもつ曲がある。
あぶらだこの“BUY”のブレイクの間の手「よし」。
町蔵の「気狂うて」の間奏の「なるほどな」。
しいてあげれば筋肉少女帯「いくじなし」の「だがしかし」。
一度,この3言だけで曲ができないものか思案したが,結局うまくいかなかった。

なぜかP-MODELにはこういう決めの一言はない。“REM SLEEP”の「おはよう」以外は,基本的に雄叫びだ。それはそれで格好いいのだが。
もとい。「旬2」の「ダーリン」があった。

中卒さんのスタジオ

2人ではじめた社会人バンドに学生時代の友人が加わり3人になった。ベースはいなかったものの,ウインド・シンセでメロディを吹きながら,ベースラインをフォローする和之の能力に助けられ,曲もできあがってきた。
3回目のスタジオ入りのときだったろうか。浮かない顔だった。
「結婚するんだ」

しばらくの沈黙。
「聞かなかったことにしてやろう」
昌己が言った。

振り出しにもどってからが長かった。

2人では,TGの“HEATHEN EARTH”みたいな曲になってしまう。オール・イン・ワン・シンセの導入は当然のなりゆきだった。シーケンサに併せての演奏。カチっと決まるはずが,今度はホルガー・ヒラーかはたまたスキニー・パピーのような音になってしまう。

数年間,都内のスタジオをわたり歩いた。
そのスタジオがどこにあったのか覚えていない。
結婚して子どももいた友人を巧みに誘ってスタジオ入りしたときのことだ。ホールで缶ジュース片手に乱雑に張り散らかされたチラシを眺めていた。

「死ね死ね団のライブ告知だぞ。まだ,やってたんだ」
「そういえば,“中卒”ってメンバーいたよな」
「いた,いた」

スタジオを出て清算をしていたときのこと。
昌己が「死ね死ね団って,やってるんですね」
何気なくスタッフに声をかけた。
「メンバーに中卒っていませんでしたか?」
「僕が中卒です」まさか……。
そのスタジオを営んでいたのが,“中卒”さんの親戚(だったと思う)だそうだ。

しばらく後,予約を取るために連絡すると,店を畳んだということだった。

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