加藤和彦

映画を観てから加藤和彦の作品を聴き直している。『それから先のことは』がやはりいいなと思ったことがひとつ,それと『あの頃,マリー・ローランサン』から加藤和彦の歌い方が変わったことにも気づいた。

『あの頃,マリー・ローランサン』がリリースされたとき,メディアの取材をよく目にしたし,坂本龍一のサウンドストリートにもゲスト出演したはずだ。シュリンクされたジャケットを開くと,当時,増えていたレンタルレコード店についてリスナーへのメッセージのようなカードが入っていたことを覚えている。

で,歌い方の変化について,もともと加藤和彦は低音で勝負するような歌い方はしなくて,泉谷しげるが“ふわふわおじさん”と称したように高音のあまり安定しないボーカルスタイルが売りというか,魅力だった。低音で歌った曲はミカ・バンドの「サイクリング・ブギ」くらいしか思いつかない。

『それから先のことは』と『ガーディニア』の,あるかどうか調べていないけれど低音で歌う箇所は印象に残っていない。ヨーロッパ三部作であっても,たとえば「トロカデロ」なんて,『あの頃,マリー・ローランサン』以降の加藤和彦であればキーを下げて歌うかもしれないけれど,高いキーで安定しない感じがとてもよかったのだ。

『あの頃,マリー・ローランサン』以降はそこに,ひっかかるような低音が加わることになる。でも,ひっかかるような低音は必要ないのではないかと思った。みずから失敗作と呼ぶ『マルタの鷹』は低音のひっかかりが顕著で,こんなふうに歌わなくても,不安定な高音だけで歌ったほうがどれほどかっこいいだろうかと。

加藤和彦

音楽ドキュメンタリー映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』を観た。

せっかくならばできるだけ大きな映画館で観ようと思い,仕事を早めに切り上げて日比谷まで足を延ばした。

どうしたわけか,ミカ・バンドが『黒船』を録音しているあたりのエピソードからイギリス公演あたりで涙腺が緩んでしまった。その後,グルメエピソードのあたりで持ち直したものの,最後のあたりも胸を打つ内容だった。

『それから先のことは』というアルバムは,私にとって加藤和彦のアルバムのなかで特別なもので,それはたぶんアルバムを買ったとき(リリースされてから少し経った高校時代だった)の,自分のまわりの様子と二重写しになる様子が描かれていたからだと思う。40数年ぶりにそのことを思い出した。映画を観た後,日に数回,事務所で流している。聴くたびに不思議なアルバムだと思う。それは歌詞を書いたのが安井かずみだからだ。

映画を観終わり,1975年から76年の加藤和彦の動きを,知る範囲で反芻してみた。

復刊された『あの素晴しい日々』を読むと,

ミカ・バンドのイギリス公演から帰って来た後に安井と出会って,一年なにも仕事をしてなくて,わたしはそれで財産をなくしました。仕事を全然していない。……もちろんミカ・バンドで全部使っちゃったし,全然金もなかったから,安井のところにころがりこんじゃった。(p.183-184)

1976年の初夏だったと思うのだけれど,ロンドンに留学中の北山修はソロアルバム『12枚の絵』を制作していて,そこに加藤和彦を呼ぶ。ミカ・バンドのイギリス公演が75年10月23日までで,ミカはクリス・トーマスに引っ張られてイギリスに残っていただろう。1年も経たずにロンドンに向かった加藤和彦は何を思ったのだろう。

人生をいじくって云々するような悪趣味ではなく(たとえてしまうならばポール・オースターの『ムーンパレス』だよ,これは),北山修と共作した「旅人の時代」の歌詞,さらにそれから数か月後に録音を始めた『それから先のことは』で安井かずみが書いた歌詞,どちらも加藤和彦のことを書いたように読めてしまう。

『それから先のことは』は,完全に私小説なんだよね。(p.187)

みずから私小説と位置づけたアルバムの歌詞を書いたのは安井かずみだった。よく書けたなあと思う。どのようなやりとりがあったのだろう。

ヨーロッパ三部作のリマスターのときに削除された佐藤奈々子のボーカルパート。これは加藤和彦の判断だったのだろうか。

加藤和彦と安井かずみの関係をイコールパートナーのようにイメージしていたのだけれど,どこかミスリードされていたようにも感じる。

起こり得なかった加藤和彦と佐藤奈々子がどこかのタイミングで続けて共作していく様子を思い描いてしまったのは,映画のクレジットに佐藤奈々子さんの名前を見たからだった。

このところ

連休が終わってから,どうも忙しいと思っていたら,新刊の下版が控えていたことをすっかり忘れていた。打ち合わせや取材を入れていたものだから,なんだかいろいろと混乱していた。

先週末は大阪城公園近くまで日帰りで取材。7時に家を出て,品川経由で新大阪まで。いまだ旅行客で混雑している。大阪に移動して環状線に乗り換える。

2時間ほどで取材を終える。昼食をとろうと思い,鶴橋まで移動。昼飯前に古書楽人館を覘く。森ノ宮が近くだからなのか,鍼灸や東洋医学に関する古書がかなり揃っている。文庫本を数冊購入して駅に戻る。駅前をぶらんぶらんしてキムチを購入,昼食は大吉に入る。ビールとランチ。

新大阪まで戻り,東京駅に着いたのは18時前。中央線で吉祥寺まで行き,家内と待ち合わせ。古本のんきの均一棚で3冊購入。よみた屋で2冊購入し,夕飯用にお弁当を買って帰宅。

4月

4月には娘の結婚式があって,だいたいそれがもっとも大きな出来事ではあるのだけれど,単行本の下版や新刊配本,取材などの動きは当然のように重なり,何が大きい出来事なのかまったくわからないひと月だった。みちくさ市もあったし。まあ,望んでつくった動きがほとんどだったのだから仕方あるまい。

10年前,20年前の出来事について,何らかのテキストデータが残っていることのありがたさを,このところ感じることしばしばだ。いくつかつくり,すでに動かしていないサイトであっても,htmlデータの残っているものがある。素人作ではあるものの,なかには他人事のように,よくつくったものだと感心するものもある。

年明けにお世話になった作家さんのグループ展を見に東京駅大丸に行った。その流れで,両国で開かれていたレインボーブックスさんの個展に伺い,1時間くらいお話しして大丸に戻る。10年ほど前,はじめてみちくさ市に参加した際,一緒の場所になったのが縁で,その後,みちくさ市のたびに,それ以外では宇都宮の古本市,また事務所での古本市でもお世話になった。

古本市では,本の話につながる記憶についてはそれほど話すことはないのだけれど,今回は個展だったので,作品創作の背景など,はじめて聞くことが多かった。この歳になると,同世代感覚というものから逃れる必要はまったくなくなる。あたりまえに80年代初めくらいの話というか空気のようなものを持ち出しても通じる気安さが心地よい。

レインボーブックスさんは地元に戻られるそうだが,これからも年に数回,古本市で話す機会はありそうな感じをもってわかれた。

というようなことを打ち込んでおくと,いつか読み返したり,記憶を辿るときに便利というか重宝する。

4/24

雑誌の下版まで2週間あまりで終わり,新刊の配本手配が重なり,慌ただしかった。週末は4年ぶりのみちくさ市に参加した。

何セットかある『ブロードウェイの戦車』をみちくさ市,ではなく,染の小道の事務所内古本フリマに並べようと思い,自宅からもってきていた。数日前のこと,なんとはなしにページを捲ったところ,ついつい読み進めてしまう。そんなことをしたのは,集英社新書で『永遠なる「傷だらけの天使」』が出たをの捲ったからかもしれない。

同書のなかで矢作俊彦はインタビューに答え,このようなことを言っている。

本当のハイマート・ロス,故郷喪失者っていうものを描いたドラマは『傷だらけの天使』以降,多分日本ではもう作られてないんですよ。

矢作俊彦の小説がもともと,失われたヨコハマを希求する人物を描いたものであることからして—―後に,矢作俊彦はそれを「ここではないどこか」と定義して,日活貼付撮影所のセットのなかでのヨコハマというように,より抽象化するのだけれど,ここで語られる「故郷喪失者を描いたドラマ」という括りが面白かった。

1980年代半ばには「エクスパトリエートたちのエリック・ドルフィー」を書き,「ここではないどこかへ」を経て,『ららら科學の子』は,ハイマート・ロスばかりの物語をしてまとめられた。『傷だらけの天使-魔都に天使のハンマーを』が刊行されたとき,だから,矢作俊彦の読者の多くは,その物語を『ららら科學の子』の嫡子のようにとらえた。

やっかいなのは,そのような文脈で矢作俊彦の小説を読み進めていくと,ハイマート・ロスが初手から二手にわかれていることに気づかされることだ。つまり,もう一方で,J,傑の名で登場する「彼」,『引擎』の「彼女」のように,故郷と呼べる場所をもたない出自のキャラクターがまた,ここを批評的に描くなかで登場するのである。さらにいうならば,ここではなく,彼の地での彼/彼女の物語も含めるとなると,ニューヨークのゴロウ・スギウラ,パリの辻潤はじめ,矢作俊彦の小説のほとんどにハイマート・ロスは影を落としている。

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