夜と霧の隅で


本書が取り上げようとするナチ国家における精神障害者大量「安楽死」と,それをとりまくナチズム期の精神医学および精神分析学の動向,さらにはその戦後への見逃すことのできない深刻な影響なども,そのひとつである。これらの歴史は,ごく最近に至るまで――少なくともホロコーストの歴史ほどには――決して想起されることはなかった。それは歴史のなかで,深く隠蔽され抑圧され続けて今日に至ったものといえる。
小俣和一郎『精神医学とナチズム』(講談社現代新書)

内容はすっかり忘れ,書棚のどこかに埋もれたままの新書を会社帰りに寄った古本屋で見つけ購入した。途端,昌己からメールが入り,なじみのタイ料理屋で夕飯をとることになったのでそのまま持っていった。『精神医学とナチズム』を鞄から取り出すと,昌己も刊行当時読んだという。不思議なことではない。

翌日から通勤中に読み進めているのだけれど,引用した冒頭の一文にひっかかった。本当かよ?

北杜夫の芥川賞受賞作「夜と霧の隅で」を読んだのは中学生頃のことで,つらつら思い返すと,結局,その後,今日に至るまで精神科医療に関心をもつきっかけは北杜夫の作品だった。

「夜と霧の隅で」は,小俣が述べていることとはまったく異なり,第二次世界大戦真っ只中のドイツにおける精神障害者の安楽死と,そこにかかわる精神科医の苦悩をテーマに据えたものだ。戦後15年,すでに小説のテーマに取り上げられていたことを小俣が踏まえなかったのはどうしてなのだろう。

読み始めると面白くて,あれこれ情報を補ったり修正したりしながら,半分くらいまで進んだ。フロイトとユングのくだりになったあたりで,そうか,シュヴィングの『精神病者の魂への道』は,「夜と霧の隅で」につなげるという読み方ができることに気づいた。つまり,シュヴィングが潰えた理由の一つがナチズムの台頭であり,そこに「夜と霧の隅で」があるというようなイメージだ。

仮に,シュヴィングをモデルとする看護師を主人公に,なんらかの物語を構想するするとき,そこには「夜と霧の隅で」の登場人物やエピソード,斉藤茂吉やフロイト,ユングを交錯させることが可能なのだ。

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