ネタ


寒くなった。19時くらいまで仕事をして,帰りに近くのカフェで一休み。コンビニでサンエイムックの「サイボーグ009」vol.9を購入。地元の駅に降り改札を出ると,降りだした雨がマンションの近くで強くなる。狭い車寄せの前に伸びる桜と樫まで行けば雨を被らなくてよい。小走りで線路沿いから橋を渡る。

サンエイムック「サイボーグ009」シリーズは編集がすばらしい。この巻では「幻影島編」の次に「裸足のザンジバル編」を挟み,「北の巨人コナン編」につなぐ。「裸足のザンジバル」が執筆された時期からすると,こうやってつなげるのが妥当なのだ。にもかかわらず,唐突にサイボーグ009シリーズに組み込まれて少年サンデー版として発表から少し遅れて刊行されたため,メディアファクトリー版でさえ,この並びにはなっていないかった。

帰りの電車で,この巻にどんな情報が盛り込まれているか,その視点から読み直してみた。もうひとつ,画面づくりの視点でみるとこの時期,しばしばとり入れられている手法があるのだけれど,それは改めて。それにしても通称「コンビニ本」の流通経路が気になる(最終的に読者の手に届くまで)。

ということで,石森章太郎のマンガについてあれこれ考えた。

教養を盛り込むということは,もとになる教養が存在する。これをどのように料理するかでオリジナリティが問われるのだろう。しばしば石森章太郎のマンガは,SFや映画からの引用(場合によっては盗用),影響を指摘されることがあった。絵についても同様で,たとえば「リュウ」に連載された「幻魔大戦」神話前夜の章のカラーページが明らかにフラゼッタの一葉をもとに描かれたことを指摘する投書が掲載されたこともあったはず。

では,それらを,マンガのなかにさまざまなもの・ことを取り込もうとするバイタリティゆえととらえるか,アイディアが枯渇して既存のものから盗み糊塗したととらえるか,どちらかなのだろう。同世代では,評価は芳しくなかった。でも,40年近く石森章太郎のマンガを読み続けてくると,バイタリティゆえだったのではないかと,やはり思うのだ。

たとえば手塚治虫の「アドルフに告ぐ」は,極端な話,小説として創作されても,もしかしたら違和感なく読むことができるかもしれない。「アドルフに告ぐ」を例にあげたのは,この作品を読むと,松本清張やら五木寛之などの小説家の一時期の作品を思い出してしまうからだ。坂口尚の「石の花」とは決定的に違う。「アドルフに告ぐ」で手塚は,小説にマンガを身売りしてしまったような気がする。マンガである理由をどこに置くかということで,1960年代後半から晩年までの手塚治虫は,その点を放棄してしまったような気がする。1950年代に魅力的だった映画的な構図とコマ割りは手塚治虫にかぎっていうと枯渇している。この時期の評価の高さが,昔からずっと腑に落ちない。

石森章太郎の晩年,立川文庫シリーズ3冊を久々に読み返してみた。

絵が時代に追いついていない感じは“石ノ森”に改姓する前から周知の事実ではあるものの,この時期でさえ,構図とコマ割りだけを追っていくと,スピードが増していることに驚いた。

コマとコマの間の時間をバッサバッサと削っていく。それは読者が追いついていけないくらいの速さだ。もはや「考えるんじゃない,感じるんだ」さえも遅く感じるほどのスピードで構図とコマを切っていく。だから受けなかったのだろう。努力する素振りを見せずに,ああいう作品を描いていくのだから,石森章太郎は天才だ。

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