死すべき定め


一日中,事務所で仕事。

東京は寒いだけで済んでいるからありがたい。ニュースに映る各地の様子は雪と闘っているかのようだ。

宮内悠介「カブールの園」を読み終えた。後半,ふと鶴見俊輔やハーバート・ノーマンのことを思い出した。『日米交換船』を読み直してみようか。併載された「半地下」を少し読み始めた。いつもと文体が違っている。こちらのほうが読みやすい気がする。そしてパッと読んだだけで記憶に残る。

船橋で手に入れたアトゥール・ガワンデ『死すべき定め』を捲り始めた。この内容を医師に書かれてしまうと,看護師の立つ瀬がないな。ただ,全体に漂う高級な匂いはどうしても拭えない。先日,北千住で打ち合わせをしたときに,武谷三男はスピノザの神に思いを寄せるけれど,同じ意味合いをたとえば大衆文学のなかには見出せないのが致命的。その点,鶴見俊輔はすごいと伺ったことを思い出す。

何年か前。医療職の組合関係の集まりを取材するため,浜松町のホテルに出かけたときのこと。懇親会まで出た記憶はないので,それがどのような状況で行なわれたことかわからないのだけれど,若手とベテラン看護師が合同で,当時流行っていたKARAの“Mr”のカラオケに合わせてダンスする。いや,実行委員会が詰所代わりに使うスペースで練習する姿を目にしたのだ。「あれは何か」と問われ,私と同世代の男性看護師が年長の看護師に「KARAですよ」とあたりまえに答えていた場面が印象的だった。

看護師があのままで,医師と渡り合ったとしたら,それはそれは強力だと思うことがあるものの,どうしても学問的な体裁から入っていく。「べき」論を振りかざして論争しても,勝ち負けは自己満足に陥る危険性をはらんでいる。医療職の自己満足ほどたちの悪いものはない。

致命的といわれた武谷三男はそれでも,「許容量の概念」という,ある種,大衆文学的なとらえかたを打ち立てる。大衆文学そのものと置き換えることはできないが,「べき論」に一度立ったうえで,そこからすべてが日和見でも妥協でもない地点を探りそこに立とうとする。

SNSを眺めながら,許容量の概念の不在を考える。

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