野の花ものがたり


劇団民藝の「野の花ものがたり」を見るために紀伊國屋サザンシアターに出かけた。開場まで時間があったので,社長ともども喫茶店を探しに代々木の方に向かっていると,向こうから徳永さんがやってくる。挨拶すると開口一番,「今日,ここでぼくの芝居をやるんですよ」。この時間,サザンシアターの真下で会って,私たちが芝居を見にこなかったのであれば,それは盲亀の浮木のような偶然ですよ。思わず笑ってしまう。このタイミングで,あの一言が出る徳永さんは,やはりすごいな。

「野の花ものがたり」は,鳥取の臨床医で,ターミナルケア・ハンセン病患者が生きてきた様などについて執筆,また講演活動を続ける徳永進さんが有床診療所「野の花診療所」活動の一環として定期的に発行する「野の花通信」を原作にした芝居。

「野の花診療所」を拠点に徳永さんは日常の診療に加え,往診,在宅ターミナルケア,ホスピスでの緩和ケアなどさまざまな活動を続けている。「野の花ものがたり」では,ホスピスでの緩和ケアをテーマに末期患者と家族,かつて家族だった人,家族のような関係,エピソード(というにはそれぞれ背負っている暮らしは代替できない重さがある)を紹介しながら始まる。

ステージ上は,診察用の椅子とテーブル,ベッドが4台,ラウンジ一式。最後に場面が変わる以外は,すべての物語のこのなかで展開される。

ここでは「徳丸先生」として登場する医師のモノローグでそれぞれの場面が繋がれていく。かゆい背中を看護師に掻いてもらうAさんは70歳くらいの男性だ。粘菌の研究のために,体調がよいときは職場に通うBさんは奥さんと二人暮らしの30歳代後半くらいだろうか。Cさんはお地蔵さんをなでるような田舎くらしのおばあちゃん。優柔不断のおじいちゃんは毎日のように見舞いにくる。皆,それぞれの暮らしの延長線上にこの有床診療所での入院を選んだ患者さんだ。共通するかのように見えるのは,誰もが治らない病気(誰にも治せない病気)を抱えていること。病室での場面は,それぞれの家族や看護師とのやりとりで進む。

診療所のボランティアとして,大阪生まれのおばちゃんと,寡黙な青年の様子も描かれる。おばちゃんは野の花を摘み,花瓶にいけて,病室やホールを彩るのが役割。寡黙な青年はおばちゃんの助手兼,さくらの木を使った床をていねいに磨くのが日課だ。

そこに背広姿の(いまどきネクタイピンまで付けた)サラリーマンとその妹がやってくるところから,それぞれの糸が絡み合い,反対に絡み合っていた糸がほぐれていく。

途中に15分の休憩を挟んだ二幕2時間半くらいの芝居で,何度も涙ぐんでしまった。

いまだ愛というものが何なのかよくわからないのだけれど,徳永さんの講演を聞くと,少なくとも死を前にした人と,家族や家族のような人それぞれが思う関係のなかに愛の1つの姿があるように思う。徳永さんの講演をこれまで幾度となく聞いた。そのたびに泣いてしまうのは,それゆえだろう。「野の花ものがたり」を観て,だから同じように何度も涙ぐんでしまった。

劇中で,また終演後に少しだけ行なわれた徳永さんのお話で紹介された詩。(加筆,修正予定)

いささか
あてずっぽうのようだが
死は 無限の半分だと 心得たらどうか。
無限の寸法は
人によって まちまちである。
伸縮自在の無限の半分は
だから
人相応にほどよく 死ぬことを 気楽にさせる――。
「寸法」(天野忠)

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