大久保


午後からJR大久保駅北口で待ち合わせして,ルノアールで打ち合わせ。15時半くらいに終わり会社に戻る。家内が食事をとってくるというので娘と高田馬場で夕飯。帰りにブックオフで文庫本3冊,単行本1冊購入して帰る。あいかわらずだるさが続くため,早めに休む。

平成のはじめの数年間,新大久保の職場に通った。建てたのだか購入したのだか知らないものの,グループ会社が自社ビルを所有し,そのワンフロアに移ったのだ。

その頃,私は新井薬師に住んでいた。当初は西武新宿駅で降り,職安通りを渡り,旅館街に並ぶ道へと入り,新宿寄りの高架下を越えて通った。物珍しかったのは半月ほどで,そのうちに週の半分くらいは自転車で通勤するようになった。新井薬師から東の地形をほとんど把握していなかったので,早稲田通りを東中野銀座商店街で右に折れ,山手通りから大久保通りに入った。毎日,自転車通勤しなかったのは,帰りに微妙な上り坂が続くためだ。だいたい東中野銀座通りの古本屋で一度,休憩してから帰った。

まだ,新宿ペペには8階に書店,7階にマンガ専門店と画材屋,6階には楽器店とレコファン,すべてが揃っていた頃なので,西武新宿駅から帰ることはまったく苦にならなかったのだ。第一,新大久保界隈は楽器店が充実していて,TASCOMの4トラックミキサーは当時,会社帰りに新大久保で調達した記憶がある。町に集まる人種にさえ目をつぶれば,実はとても過ごしやすい。

食事をとるにもエスニックから郷土料理,本格的なイタリアン,ファミレス,居酒屋,山手線を越えれば当時から韓国料理店が賑わっていた。昔からある喫茶店に本屋,古本屋。思えば,当時,町中でほとんど用が足りてしまった。

その頃,矢作俊彦は連作「東京カウボーイ」の一編で,新大久保から社会保険中央病院に向かう通りを経て高田馬場の手前あたりで仕事をする中華系殺し屋たちの話を仕立てた。小説としては,にもかかわらず,実に地味なつくりで,そのミニマルな雰囲気が,昭和の終わりから平成の初めのあのあたりにとてもふさわしく感じた。

今でも年に数回,仕事で大久保界隈を歩く。行くたびに様代わりしたという表現を耳にするが,平成の初めから,概ねこんな様子だったように思う。

望月三起也が「ロゼ・サンク」を描いたのは2000年前だった記憶があるが,先の高架下の様子など,私が通っていた頃そのままという感じだった。今日も20数年,大久保へと通う団塊の世代の友人から「外国人の趨勢が変わるだけですよ」と慣れたふうにあしらあわれた。

ここのところ,風向きはヴェトナム系,タイ系外国人に靡いているようだ。とはいえ,新大久保駅から少し北に入ったあたりのイスラム系アジア人コミューンは安泰のようだし,うまく棲み分けられているに違いない。私が通っていた頃はタイ料理店はまばらで,陽が落ちるとともに中南米からの商売女性が現れた。勢いがあったのは韓国系や中国系だった。

今となっては他の町と同じく,新刊書店は全滅(山手線の東側,風月堂の向かいあたりにあった店は続いているのだろうか),古書店もなくなった。喫茶店は何軒かが続いていて,大久保駅を新宿方面に歩くと,すれ違いざまに撃たれそうなロケーションだけれど,新しい喫茶店までできていた。

大久保界隈を散策してみたくなってきた。

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