S60

形式的には連休明け。通勤電車はかなり混んでいる。

19時半まで仕事。中井で降り,伊野尾書店で「新潮」と『90年代の若者たち』(島田潤一郎,岬書店)を購入。今朝は「週刊新潮」も買った。

「岬」というと,中学生の頃,一時だけ,地図帳を広げ,地名を書き上げ,誰が一番早く探すかというゲームが流行ったことを思い出す。高橋が書いた地名は大阪府を中心したページにあるはずだけれど,なかなか見つけられない。「山甲」と横長に書かれた文字を誰もが「やまこう」と読んだ。高橋は読み方はいわない。これは「みさき」なわけで,その後,巨大掲示板で,これに似た手法が闊歩していた頃,「ああ,やまこうか」と思った。おかげで,私は大阪府の岬町がどのあたりにあるかをいまだに覚えている。それが何かの役に立ったことなど一度もない。(ということは以前にも書いた→ここ

と,版元の名前だけでも数行分の記憶が蘇る『90年代の若者たち』を, 歩きながら夜道の街灯の下, ほんの数ページだけ読んだ。浮かんだのは「小説はコストパフォーマンスが悪いからネタにしなかったなあ」ということだ。固有名詞を嗤いに結びつける80年代半ばのネタになったのは音楽や映画,マンガ,テレビドラマなどで,固有名詞としての小説をネタにした記憶はない。単語で語るには小説はコストパフォーマンスが悪いのだ。ネタにしないので,友人たちと小説についてほとんど話した記憶がない。友人のアパートに行き,書棚を覘き,どんな小説を読んでいるのか目にしても,それがネタに結びつかない。そんなことを考えながら,私たちの20代後半が90年代と重なっていることに気づいた。

90年代の折り返しの少し前までが,私たちの20代だ。20代後半を若者とは呼ばないかもしれないけれど,若者と呼ばれてもしかたないような毎日を送っていた。数ページしか読んでいない『90年代の若者たち』に描かれる若者の生活と,しかしそれが違うことはわかる。

1981年から1983年くらいまでの変化と似たようなことが,1988年から1992年あたりに起こったに違いない。1992年くらいまでの面白さからフェイドアウトしていった私たちは,だから『90年代の若者たち』とは決定的に違う間抜けさを抱えているように思う。レイドバックするような感情も物語も持ち合わせていない。あるのは固有名詞だけだ。

結局,私たちにとっての1990年代前半は,昭和60年代の終わりのような印象になってしまう。

矢作俊彦の「ビッグ・スヌーズ」と長期不定期連載について書きとめておこうと思っていたことをすっかり忘れてしまった。

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