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朝から雨。昼過ぎに非道くなったけれど,夕方にはおさまった。20時過ぎまで仕事。帰りに駅前の書店で,「週刊漫画アクション」を買う。「ルーザーズ」最終回。こういう表紙にすると多くの人の手にとってもらえるのだろうか。逆効果のような気がするのだけれど。ペラペラと捲りながら帰る。

先日出た河出書房新社のムックに,夏目房之介による石森章太郎へのインタビューが再掲されている(初出は海外の雑誌,国内ではファンクラブ通信に掲載されたとのこと)。そのなかで,マンガにおけるコマ割りの可能性と技術論の必要性について語っていて,具体的な内容については触れられていないものの,その指摘自体が面白い。

というのも,何人かのマンガ家を除き,コマ割りについては,この30年くらいで退化というか省みられることがなくなってしまったように感じるからだ。特に技術論については石森章太郎にまとめてほしかった。技術論がないから,マンガが容易く動員されてしまうような気がする。

自由と平等とは,よくならべてとなえられます。しかし何でも好きなころをするということと,人間はみんなおなじだということは,本来別のことです。それが自由平等というふうにつないでいうようになった理由をしらべていくと,自由の意味がわかると思うのです。

自由と平等とがむすびつけられるのは,人間のなかに強いものと弱いものとがいるからです。強い人間が自分の力にものをいわせて好き勝手なことをすると,弱い人間は迷惑をします。もっとも迷惑だと思っても,強い人間の力があまり大きいと,弱い人間は文句がいえません。文句をいったら,もっといじめられるので,だまっています。

強い人間が好き勝手なことをしたとき,こっちは迷惑をしますよと面とむかっていえるのは,ある程度の勇気と能力をもっている人間です。いまは周囲の事情で弱い人間の仲間になっていますが,事情がかわれば強い人間の仲間にはいる能力のある人間です。疎外された強者といってもいいでしょう。そういう人が弱い人間の代表になって,強い人間に弱い人間の気持を伝えます。

あなただけ好きなことをしないでください,私たちにも好きなことをさせてください,おなじ人間なのですから,と弱い人間の側から強い人間にむかっていう場合に,自由の要求と平等の要求はかさなります。

このところネットで出版社のリテラシーが問われている様子を目にすると,松田道雄のこの言葉を思い出す。

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