ネタ


矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん』を読み返しながら,ああ昭和は談合の時代だったなあ。それが平成30年かけて談合と忖度の時代に退化するなんて,と感じた。大塚英志いうところのおたくの選民性(選ばれたいと思う人が選ばれた人の神輿をかつぐ,意訳であるものの)そのままじゃないかと思いながら,にもかかわらず,そのなかで私たちはネタを探し,見つけてきたのだなあと,反省にもならないレイドバック感。

1980年前後,マンザイブームとテレ朝のやらせ問題が侃侃諤々だった当時,芳之と話しながら,結局,やらせってきらいじゃないという流れになったことがある。高校時代の頃で記憶に残っている数少ない思い出だ。

高校時代のはじまりは強烈だった。担任の堀田は当時,まだ30代だっただろうか。英語の教師で,オーストラリアに留学中,窓の向こうを通った猫が気に入らず,手元にあった英語辞書を投げつけた。簡単にかわされ,辞書は庭を転がった。そのときの汚れが付いたままの辞書を毎回,授業のとき,教壇に置いていた。

堀田はこんな趣旨の話を15歳の私たちに向けて言った。

おまえら,その場の空気で,自分がこんなふうに言うべきだと感じたときは,絶対,その感じたことは言うなよ。そういう「なあなあ」は大っ嫌いなんだ。

始業式早々,会ってから数分しか経っていなかったかもしれない。にもかかわらず堀田はまず,私たちにそう言った。 痩せて,強烈に度が入った眼鏡をかけた顔は今も思い出すことができるけれど, 実のところ,堀田に言われて覚えていることはそれしかない。だけど,この一言は強烈だった。

しばらく後,徹や喬史とくだらない話をする毎日が続いたけれど,2人とも,というか昌己も伸浩も裕一も,当時は「ここで自分がこういう発言をすべきだ」という空気になったとしても,どうしたわけか誰もが,そこをずらしたところからしか発言しなかった。

彼らと30代後半から40代にかけての10年ほどの間,数年に一度しか会わなくなったとき,もしかすると,ここで自分がこういう発言をすべきだという言葉(めんどくさいな)がてらいなく出るようになっていたかもしれない。それが50歳を過ぎたころ,結局,以前のように戻っていった。

選民,動員には関係せず,だけどもネタはそのあたりから探す。わかりづらい表現だが,昭和の終わりくらいのそうした態度はなかなかうまく説明できない。(つづく)

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