Fade to Grey

北杜夫に「白毛」というタイトルの短篇があった。まだ10代を折り返してもいない頃にはじめて読んだので,妙な感傷だけが伝わってきた。たぶん北杜夫がどこかで書いていたとおり,若い頃の死への甘美な感傷に,それは似た手ごたえだった気がする。「星のない街路」あたりの短篇を感傷だけをたよりに読むことがたのしかった頃なので,さらに加えることはない。10代を折り返す頃には,1本や2本,頭髪のなかに白いものを見つかるようになったけれど,「白毛」のリアリティのなさに変わりはなかった。

死への甘美な感傷は,歳を重ねるとリアリティをもったものにその質を変える。北杜夫はそんなふうに続けていたはずだ。40代になると私の頭髪には白いものが目立つようになった。四捨五入50歳になる頃には,床屋で刈り取られた毛髪が,白く尖って散らばっているのを他人ごとのように眺めるようになった。まだ,自分の一部だったようにはどうにも感じられなかった。

ここ数年,圧倒的な白と,散在する黒のコントラスト。人はだいたいのことに慣れてしまうものだ。床屋の椅子の上でさえも。

ところが,いや,慣れではなくて,家内にはいまだほとんど白髪がない。緊急事態宣言発令後,LINEで友人との話題は,白髪をどうしているかだそうで,あれを使うとよいとか,これは面倒くさかったとか情報が飛び交っているらしい。ところが,家内はその話題に入っていけない。「まさか染めてないの」と問われ,そうだと答えたところ,かなり驚かれたという。

誰かにリアリティのバランスを問われ,仮に撃たれとしても,まあ,そんなことで何かが変わるものではないのだろうな。

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