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暑い。会社の行き帰りに向田邦子『思い出トランプ』を捲っている。「ような気がする」と終わる文章があちこちにあることに気づく。16時過ぎに退社。中井の日高屋で休憩して,2篇くらい読む。伊野尾書店で『プレイボール2』を購入。家に戻り,少し横になる。頭痛が出てきた。このところ右側なのだけれど,今日は左側。どちらも歯の治療跡(右側が治療中)で,偏頭痛と歯科治療の関係はどうなのだろう。起き出して,水を飲み,横になる。

家内が帰宅したので夕飯。22時過ぎくらいから頭痛が非道くなってきたので,薬を飲み横になる。結局,3時過ぎまで眠ってしまう。したくをして続けて眠る。

SNSを眺め,あれこれと考える。北山修が『人形遊び』以降,ジョン・レノン事件後くらいまで述べていたことを思い出す。ベイトソンの「複製技術時代の芸術」をもとに,リアルのゆくえを東浩紀よりはるか前,述べていた論考は面白かった。それはパーソナルコミュニケーションとマスコミュニケーションを切り分けるもので,メディアを通しての出会いをパーソナルコミュニケーションとしてとらえるなかで生まれる喜悲劇に眼目を置いていたはずだ。

パーソナルなコミュニケーションを,マスコミュニケーションとして換骨奪胎する術を,たぶんいまだ私たちはもっていないのだろうなというのがひとつ。

パーソナルな,もしくはパーソナルと称されるコミュニケーションのノイズを,マスコミュニケーションのなかで処理しきれないやっかいさがもうひとつ。

リアルのなかに,それらが混在してしまう。まあ,それで出会いがしらに遭遇しないというのはゾーニングの手段のひとつとして否定できないものだろう。ただ,ジョン・レノンだって忌野清志郎だって,亡くなってから聖人君主のように扱われる,そう扱われる面があることには違和感を覚えてしまう。それでは,大槻ケンヂじゃあるまいし「死んだら神様か」から何も変わらない。

アナーキーとナターシャセブンの間にある隔たりをふと思い,受け手が被害者の立場からそれを考えることなど,はたして可能なのだろうかと考える。オットー・クレンペラーの逸話が,近年のSNSに準じて流されたなら,「新世界」や「イタリア」をたのしむことができないのだろうか。そのあたりの感覚にどうもおさまりがつかない。音楽は味方なんだけれど。

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