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雨で暖かい。夜は茗荷谷で家族と食事の予定。にもかかわらず,朝から偏頭痛。支度をし終えてから薬を飲み,午後にもう一度服薬。あまり変わらないなと思ったものの,夕方過ぎには頭痛が少しおさまってきた。

ここ数年,利用しているレストランで夕飯。この時期だから貸切で,旬の野菜や魚を用いたコース。いつものことながらとても美味しかった。今年は旬の野菜や魚が早く出回り始めているそうで,気温のせいでしょうかね,と。

帰宅後,MacBookAirのアップデート。数週間前,かけたときはうまくいかずにそのままになっていたのだ。検索すると,ESETとバッティングしているとまずいようで,アンインストール。順調にアップデートを終えた。片手で使うとなるとMacの利便性はWindowsよりはるかに上回っていると思う。

赤い公園が5月のワンマンコンサートをもって解散することになった。コンサートのチケットはとれないかもしれないが申し込みだけはしておこうと思う。申し込みできるのならば,であるが。

SARSやMERSといった感染症の広がりが,遠くない過去にあったにもかかわらず,先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化し,抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも,事態を深刻化させた。その代償として,先進国の大都市は,レジリエンス(障害に直面した際の復元力)を失ってしまったのだ。

p.284

パンデミック発生時に社会を守るために不可欠な人工呼吸器やマスク,消毒液は,十分な生産体制が存在しなかった。コストカット目当てに海外に工場を移転させたせいで,先進国であるはずの日本が,マスクさえも十分に作ることができなかったのである。これらはすべて,資本の価値増殖を優先して,「使用価値」を犠牲にした結果である。その結果が,危機を前にしたレジリエンスの喪失である。

p.301

『人新世の「資本論」』を読み進めながら,後半になると,言葉足らずではないか,適切なたとえなのだろうかと考えながらページを戻る箇所が少なくない。上の2か所は,医療を例にあげているのだけれど,上の例では抗ウイルス薬を開発し,投与することに対してレジリエンスととらえているようだし,下の例では国内での人工呼吸器,マスク,消毒液の生産体制をレジリエンスだととらえているようだ。

どちらも文献の引用(本サイトへの転記の際は省略)とはいえ,論旨の流れのなかで,違和感を覚えてしまう。補足をつけて引用するならまだしも,人工呼吸器とマスク,消毒液を同列に論じる(と思われる文献)をそのまま引用するのはどうなのだろう。

前のエントリに書いたとおり,ディスポーザブル製品が医療の世界に大きく入ってきた1970年代以前,マスクはディスポーザブルでなく,洗って必要なときに使うようになっていた。蒸気とガーゼの匂いをかぐと風邪で学校を休んだ記憶が蘇るくらいに。

人工呼吸器はディスポーザブル製品ではないし,かなり強引なたとえのように思えた。というあたりを,戻りながら読む。

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