1970年代に入り,輝かしい未来の礎であった高度経済成長を批判,反省するかのような動きはさまざまにみられた。オイルショック以降,顕著なようにモノからヒトへのスローガンよろしく,まあ反省ならばの誹りを免れることはあるまい。

占領時代が終わり,あったはずの戦後民主主義がカッコでくくられながら高度経済成長のスローガンのもと,成人男性が勤続年数ととに賃金を上昇させ,家族を養っていく体制を推し進めた。養老律令を辿るまでもなく,国は国民を動員する。その動員を免れるのは,らい・癲狂のものであって,そのように名づけれた人は動員を免れる一方で,世間からパージされる。わが国の歴史はその積み重ねであるともいえ,高度成長時代にも,らい・癲狂の人は変わらぬ扱いを受けた。

医療は一方で,成人男性の職場復帰を最短ではたすための社会的機能をもつとともに,社会からパージされた人がつながる場としても機能したはずだ。ただし,病院収容により一人の患者が生み出す(この表現は語弊があるものの)経済的対価は少なくない。それを逆手にとった“商売”がいくつも動き,ときどき思い出したかのように摘発された。

当時,医師と看護婦はいずれの機能を果たす役割をもっていた。看護婦はおもに女性であり,成人男子は勤続年数に伴い賃金が上昇していくのを傍目に,寮生活で緊急の呼び出しに対応せざるを得なかった。部屋を借り,ひとりで暮らしていくに足る賃金が保証されなかったためだ。

看護婦のなかには,当時,高度経済成長からパージされた人に向き合うとともに,看護婦の置かれた状況について異議を唱える人が何人も現れた。

週末。そのひとりの方と打ち合わせたときのこと。高度経済成長から半世紀近くを経て,国会議員となったその方がある議案の採決に反対するために牛歩戦術をとった。その話をうかがったとき,数年前,その方が中心となり設立された法人の集まりで,辺野古で座り込みに参加した方の話が重なった。(たぶにそのときのメモは本サイトのどこかに残っているはず)

つまり,そこにあるのは絶望しない勇気であり,了解と変化への確信なのだ。牛歩戦術や座り込み自体で問題が解決すると考えるほど,現実認識が甘くはない。そうした働きかけで決定や行使を1分1秒でも先伸ばし,その間に私たちの社会が了解と変化を起こし得ることへの確信だ。

それはありえなかった戦後民主主義に,高度経済成長のもとで蓋をせず,もうひとつの道を探るありかただろう。何が明らかになり,何を明らかにできなかったのか。残したいのはそのことであって,私の行なったことでない。そうおっしゃる意図をようやく理解した。ほんとうに飲み込みが遅いのだ,私は。

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