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STORESに入った注文の本は新事務所に移動していた。朝,少し早めに出て,本をピックアップして出社。昼休みに梱包して発送する。5月はこの1年でもっとも本が動いた。

20時くらいまで仕事。帰宅後,夕飯をとる。家内が踊ってばかりの国の新譜を買ってきてくれたので早速聴いてみる。よい意味でこれまでとは感じが違う。歌詞はディストピアを歌いながら平沢の3部作を遥か超えたかのように伝わる。比較するものではあるまいが。くるりが「本当/ほんとう」と歌ってからおよそ20年。「嘘」は「本当」の対極にあるのだろう。

北山修が,「ほんもの」と「にせもの」の間に「にほんせいのもの」があると書いた1980年代。「ほんもの」が「本当」で,「にせもの」が「嘘」かどうか何とも言えない。ただ,「ほんもの」と「にせもの」を一緒にまとめてみていく癖だけはついてしまった。それは「シェイクスピアのように」と言ってしまってよいのだろう。

岸政彦の社会構成主義に対する辛辣な指摘は,くるりや踊ってばかりの国の歌詞に登場する「本当」「嘘」のように感じられ,どこかに世代感が伴っているように思う。遥かに世代としては岸に近い私がそう感じるのだから,しかたない。

平沢進が指摘する距離感のほうに,もっとシンパシーを感じてきた私が,踊ってばかりの国の新譜で繰り返される「嘘」を抵抗なく,というよりもシンパシーを覚えたのは,バンドのもつ確信が揺らいでいないからだと思う。平沢のディストピア3部作は,もしかすると「あんたが悪い」にレイドバックしてしまった面があったのではないか。

別に,社会構成主義自体に肩をもつつもりはまったくない。ただ,その寄って立つ前提はいまだ更新され得ないように思うのだ。いや,ね。踊ってばかりの国のように,スピノザの神があるなら,それは後生大事に抱えるものではないのだろう。

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