Decade

原稿を依頼し,編集・印刷して刊行する。”極めて心細い仕事を生業”にしているわけだけれど,30年以上のこの間,仕事を抜きにして面白く感じた原稿はそれほど多くない。仕事の上であれば,ほとんどの原稿に面白さを感じることができるものの。

東日本大震災の数年前,管理者経由で届いた原稿が面白かった。校正のやりとりのなかで,私自身の疑念が取り払われていくかのような感触を受けたことを思い出す。昭和60年代からこっち,広い意味での洗脳の手法が世間を跋扈するようになってからこっち,疑念は身を守る武器のようなものだった。その武器で身を守っていることを恥ずかしく感じるはないにしても,疑念を疑念として投げてしまってもよいかと思うくらいの,それは感触だった。

数か月後,あらたに連載がはじまった。後半,原稿が間に合わなくなることが2,3回あったものの,いまでも思い出す場面や表現がいくつもある面白い原稿だった。連載終了から間もなくして東日本大震災が起きた。数週間後,施設で公開勉強会が開かれた。西日本まで家内,娘と連れ立って行き,私は取材に入った。そのときの勉強会をもとに特集を組んだ。

さて次は単行本だというところで,企画がすすめられない状況になり,その領域で出版活動を積極的に行っている出版社で続けて単行本企画を受けてもらうことに了解を得た。私はステーションホテルでその旨を伝え,このテーマで企画できない当時の状況をなんだかなさけなく思った。

しばらくして羽曳野にある研究室で打ち合わせをして,あらたに企画がスタートした。2016年のことだ。何度も中断し,ついには受け皿がなくなったのを機に,これ以上続けられないだろうなとどこかで思ったことを覚えている。

昨年,その方から連絡があり,残っている原稿をまとめて刊行したいという。1時間ほど打ち合わせをして,スケジュールをざっくりと立てた。夏休み前にメールが届いたので,原稿が届いたのかと思ったところ,夏休みに家族で東京観光に行くので,食事をするよいお店を紹介してほしいという。すこしかみ合わない感じを懐かしく思い,返信した。

夏休みが終わったころ,にもかかわらず原稿は届かない。複数の著者による企画であったため,少しきつい文面で進め方について連絡をした。返信があり,病気が再発して治療に入る。症状が落ち着けば執筆できそうだと,そのメールには書かれてあった。

1か月くらい後,共同執筆者からメールが届いた。電話でお伝えしたいことがある。吉報ではなかった。12月に入り,3人でメールでやり取りを何度かした。在宅での緩和ケアに入り,それでも症状が落ち着いたら執筆できそうだとのメールが最後になった。

先日,共同執筆者から電話があり,メールはもとより,電話でも,大阪へ出かけても,返事が届かないところに行かれたことを知った。

思えば,私生活について話したことはほとんどなかった。聞こうと思わなかったのは,それが仕事をすすめるうえでのルールだと,どこかで感じていたからだとう思う。羽曳野に行ったときだったか,入院していたのだとちらっと聞いたことはある。それでも病名を尋ねることはしなかった。すればよかったのだろうか。よくわからない。

ふたたび「遅すぎる」,あの感覚が首をもたげてくる。

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