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「フリースタイル」の最新号を探す。昼休み前に伊野尾書店を覗いたものの,まだ並んでいなかった。夕方に野方まで行き,はた書店に入ると2冊入っていたので1冊を購入した。数日前から探している『山谷をめぐる旅』(織田忍,新評社)は,この店ならば置いてあるだろうと思ったものの空振り。

バスで高円寺まで移動する。先にスーパーで米を買ってしまおうと思ったが,棚に2kgのものはほとんどない。無理して買うこともないと思い南口に移動する。

蟹ブックスにはあるだろうとあたりをつけたものの定休日だった。コーヒー豆専門店Cotoriに寄る。茗荷谷にあった喫茶店で飲んで以来,雑味のないペルー豆が気に入っていて,少し前に寄ったときこの店で買ったものがよかった。ブレンドとそれぞれ焙煎してもらっている間にパン屋に行く。赤い公園に関するエピソードがあるこの店のご主人が変わらずいらした。いくつか購入して戻る。

大石書店で文庫を買ってから戻る。ないだろうなあと思いながら文禄堂高円寺店を覗くと2階の棚に差してあるのを見つけた。購入し落合経由で事務所に戻った。

「フリースタイル」今号の矢作俊彦新連載第2回は,本式の連載開始。数行読むだけで満足してしまう。ただ,最後のあたりの「感心」は「関心」の変換ミスだろう。次号後篇がたのしみ。

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傑についてメモ代わりに書き始めてみた。

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今さらだけれども「レイン・ブロウカー」を傑の物語として読むには無理があるかもしれない。JRとして翎が死に,傑が始まるというのも詭弁だしなあ。ただし,少なくとも翎の昭和50年代が書かれていないのはたぶん事実で,それに比べると傑が昭和60年代から平成を生きたという意味では,17歳のJRに二人を仮託して読み替えてみるのは面白いかもしれないと考えながら,この続きをどう書こうか悩んでいる。

3/9

仕事は少し落ち着いたはずが,相変わらず慌ただしい。

採用品の搬入から発送までが何件かあったことと,セコハンのパソコンのセッティングを調整していたからだろう。他にも要因があった気がするがすっかり忘れてしまった。

金曜日は昌己,伸浩と高田馬場で飲む。先月,那智君とDTPをお願いしている方との3人で飲んだのと同じ店の同じ席だった。飲みながらかんばんまであれこれ話す。よい店だと思う。

土曜日は事務所で仕事。と書きながら思い出した。連れ合いの友だちからの相談で弁護士を紹介する段取りをとっていたのだ。併せて仕事先の代表から賃貸事務所の相談を受けていたので,その件でも確認などしていた。請求書もそこそこ作って発送したし。

日曜日も事務所で仕事。請求書を発送したり,手紙を書いたり,入出金の予定を立てたり,そんなことで一日は終わる。

請負仕事の件数を増やすための連絡をとりながら,仕掛の本をすすめていくとなると,今週も落ち着かなさそうだ。

3/2

2月の慌ただしさを引き摺ってしまう。昨日,今日と定期刊行物の発行作業の残りを済ませる。設定の変更を反映しなかったので28日に戻ってきたものに,履歴から一括置換して発送シールをつくりなおして貼る。

昼過ぎにはおおむね終わり,午後からサイトの調整をしようと考えていたところに,請負仕事の電話に1時間ほど費やす。それからサイトの調整に入る。

4月からクレジット決済のセキュリティ対策の条件がかなり強固になると連絡があったのは昨年末のこと。これまでどおりに自前で対策をする方向で考えていたものの,専門家の話を聞いたところ,有料で定期的にアップデートする必要がある(という私の理解)で,自前の運営はやめることにした。

新型コロナの影響でもろもろがストップした際に始めたネット古本販売と同じ環境に切り替えることにした。ダッシュボードに4,5年ふれているので,あらたな販売サイトをつくるのに半日もかからなかった。クレジット決済の審査結果が届いたので,3月のどこかから切り替えることにした。

元のサイトにリンクに使うアイコンを保存して,購入ボタンから新サイトに飛ぶようにして完了。当面はこれまでのサイト,新サイトのいずれでも購入できるものの,今週中には旧サイトはカタログとしてのみ表示させるようにする。

カタログ表示も新しいプラグインで作り直したいのだけれど,当面は今のままでカートを表示しない仕様に変更してやり過ごすことにした。

この間,サイトを通して購入いただいた方に連絡メールを送るのに,サーバーのメーリングリストの説明を読み直す。以前,このサービスを使った際に,ユーザーの返信機能を活かしてしまったために,やっかいなことになったのを思い出した。どうしてメーリングリストをその後,使わなかったのだっただろうか忘れてしまったのだ。

18時くらいに家内が事務所にやってきた。沼袋まで行って,レストランで娘夫婦と落ち合う。61回目の誕生日なので,一緒に食事をとることになったのだ。20時過ぎまでいてから帰宅。

2/18

午後から出張校正のため,午前中に作業を済ませておく。1日経つと何をしたのかすっかり忘れてしまうくらい雑多なことを片づけた。

13時過ぎに事務所を出て末広町まで。ここ半年くらい世話になっている床屋は平日の午後過ぎというのに待っている客が2名。15時過ぎには印刷所に着きたいのだけれど,順番が回ってきたのは15時前くらいだった。それでも30分ほどで終わる。あわてて印刷所に向かう。

校正の確認は30分ほどで終わる。歩いて秋葉原の方向に向かう。週末,事務所でイベントがあり,そのとき用にマレットを探しているのだ。ドラム・パーカッションを置いてあるような店には立派なマレットしかなくて,お茶の水まで行ったけれども,ここにも安手のものはない。しかたないのでネットで購入することして帰社。仕事を少し済ませる。

学生時代,義之がアパートに来たときだっただろうか。当時,矢作俊彦が「NAVI」に連載していた「ドライヴ・イン・シアター」の話になったことがある。連載第一回目はこんなふうに締められている。

だから私が,自分でつけ加えなければならない。「にもかかわらず,今,我々はアメリカの昭和六十年代にいるのではなく,幸か不幸か,日本の一九八〇年代にいるのだ」と。

義之には,この箇所の意味がよくわからないのだというのだった。わたしは,「意味」を問われるのは苦手だったし,いつものように格好のよい締め方だなあとくらいにしか思っていなかった。

昭和元年から100年が経ったと,あちこちで喧伝されている。仕事でデケイドと昭和の5年の差について少しだけ書く必要があったので,上の文章を思い出した。締めの前はこのような按配だ。

無作法にひっつけられた映画と自動車(中略)それが我が世の春を誇った時代,アメリカもまた春の盛りだった。(中略)我々はそれを一九六〇年代と呼び,アメリカ人は一九五〇年代と呼ぶ。

(中略)

そのことをポンセ君に話すと(中略)「そんなのはズレでいも何でもないさ。デケイドなんてスケールを,無理に使うからいけないんだ。ショーワで言やぁ簡単さ。君が書きたいのは。アメリカの昭和三十年代についてだ。昭和二十年代には朝鮮戦争があり,四十年代にはヴェトナム戦争があった。だからさ,——ぼくらは人の食い残しにやっとかぶりついた世代なんだ」

5年ズレた昭和でひっくくると,アメリカの食い残しに日本やフランスがかぶりついたところまでを含むことができる。初手から10年で区切って何かを語ることに意味づけなどないものの,意味がないから10年で機械的に区切ってしまうというのは悪くないと思う。

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