夜に博品館劇場で「THE MOUSETRAP」(ノサカラボ)を観るために銀座に出た。去年は船堀でアガサ・クリスティーの別の作品を観たようで,結婚してから30年以上経ったもののこの時期に家内と出かけることが慣例になっている。
お昼過ぎに有楽町線で銀座一丁目駅まで行き,昼食をとる。歩行者天国を横切って,伊東屋を少し覗く。やたらと高くなった伊東屋の店舗に入るたびに,なんだかめまいがする。あの敷地面積で13階建てというのはどうなのだろう。リーガルパッドが目についたものの,もちろん先日調達したもので間に合うから買わずに出る。
マロニエ通りのスタバでパンを購入。この店は少し前,仕事でインタビューした画家さんが東銀座で開催した個展を覗いた帰りに見つけたのだった。銀座通りから一本東側の通りを7丁目方向へ歩く。こぎれいになってしまった一画がいくつもある一方で,私が銀座の事務所で仕事をしていた昭和の終わりから平成のはじめあたりにはすでにそのままあったかのようなビルや店がときどき残っている。
晴海通りを渡ると,通りを跨いで店を広げる建物がいやらしく通せんぼしているものの,ライオンのあたりにくると40年近く前とそれほど変わっていないことにホッとする。昼になるとライオンの裏側ではお弁当を販売していて,週に何度か買いにきた。それ以外は小諸そばか,資生堂パーラーの並びにあった福家書店の2階,月に一度くらいは銀座ナインの飲み屋でランチをとったものだ。
有名な八丁目の交番とそこに入った公安の詰め所は高さも当時のままだった。何度も書いたけれど,平成が始まったあたりの1月のある日,休日に仕事をしに事務所に入ると,途端,電話が鳴った。無言電話だった。それが2,3度繰り返されると,あとはなしのつぶてだ。大喪の礼やらなんやらを妨害しようとする一派が銀座あたりから皇居に向けてなにやら発射するのではないかと訝しがられたのだろう。4階建の古いそのビルの4階の上には小さなペントハウスとバルコニーが付いていて,そこからなにがしか試みようとすれば,できないことはなかった。
銀巴里跡地にはプレートが残っていて,いや銀座のあちこちに,ここには〇〇があったと記されている。博品館劇場までとりあえず行って,時間がまだ早かったので,ウエストあたりで休憩しようかと歩き出す。金春湯は営業を続けていて,この近くにあった,やけにあっさりとしたラーメンを出す中華料理店というかラーメン屋は跡形もない。この通りにきたときは必ず確認するけれど,こちらの痕跡は何も残っていない。
ウエストはLINEで登録して店外で空席を待つようになっているそうで面倒くさいったらありゃしない。銀座オリオンズが昼間からカフェとして営業していて,プリンが有名なのだとパネルに書いてあるのを見つけた。16時半ラストオーダーというので無理かもしれないが10階まであがる。銀座のビルはこんな感じだったなあと思い出す。幸い入ることができて,プリンとコーヒーを頼み休憩する。
戦後早々から店を張っているところには,どこかバタ臭い意匠があちこちに残っている。内装への投資の方向がその後とは明らかに違っていて,それは心地よい一方で,何だか張りぼてのようにも思える。そのどちらにも反応できる世代にとって,銀座の老舗はまだ面白さを感じる対象であり続けている。
コリドー街の先の高架下,新橋に向かえば新聞や荷物の集積・集配場があった手前に,ゆっくりと下る通り沿いに,そういう老舗が店を営んでいたのはリーマンショック前くらいまでだろうか。そこから先,張りぼてのような老舗は表通りから一掃され,それはまた高架下あたりまで浸食していったのだ。
銀座六丁目から八丁目あたりに,銀座オリオンズのようにいまだ奇跡のように残っている張りぼての老舗とは,きちんと対峙したほうがよいと思う。気づかないうちに,張りぼてはしぼんでしまうのだ。と,書きながら,同じ頃,目白の川村学園の少し先にあったフランス料理店がまさに張りぼてだったなあと思い出す。おいしい店ではあったのだけれども,あるとき,時代から取り残されてしまったのだ。その店のディレクトールなのか,毎回,お世話になった人は,ことあるごとに「皇室の方が」と始まった。あの何とも胃にもたれてくる感覚は,とはいえ捨てがたいものではあったのだと,なくしてしまった後で振り返ることになる。
博品館劇場で観た「THE MOUSETRAP」はとても面白かった。