上野

仕事で夕方まで御徒町にいたので,帰りに近くの古本屋に寄ってから帰ろうと思う。検索すると,行ったことのないブックオフが稲荷町にあった。以前,徹たちと忘年会だったかをしたビリヤニがうまいカレー屋が近くにあって,弟が帰国した際にも同じ店に入った記憶がある。店のまわりはなんだか殺風景に変わっている。

地下鉄の駅を過ぎてもう少し歩くと,1階と地下1階が店舗になっているブックオフを見つけた。1階から入り,地下に通じる階段を下ると文庫,単行本などのコーナーになっている。しばらく眺て五木寛之の『晴れた日には鏡をわすれて』と関川夏央の『石ころだって役に立つ』を購入。広そうな外見だけれど,店内はそれほど広くない。

夕飯を買って帰ろうと駅のあたりの店をチェックするもののめぼしいものがないので,中野まで戻ることにした。『石ころだって役に立つ』を捲っていると,関川夏央の文章がうまく嵌っている。この人の文章は,内容と文体が乖離することがときどきあって,それが隔靴搔痒になってくることが多いのだけれど。片岡義男が原節子を書いたときのような感じだ。

中野駅に着き,ヤミヤミカレーで夕飯を買って帰宅。

4/24

雑誌の下版まで2週間あまりで終わり,新刊の配本手配が重なり,慌ただしかった。週末は4年ぶりのみちくさ市に参加した。

何セットかある『ブロードウェイの戦車』をみちくさ市,ではなく,染の小道の事務所内古本フリマに並べようと思い,自宅からもってきていた。数日前のこと,なんとはなしにページを捲ったところ,ついつい読み進めてしまう。そんなことをしたのは,集英社新書で『永遠なる「傷だらけの天使」』が出たをの捲ったからかもしれない。

同書のなかで矢作俊彦はインタビューに答え,このようなことを言っている。

本当のハイマート・ロス,故郷喪失者っていうものを描いたドラマは『傷だらけの天使』以降,多分日本ではもう作られてないんですよ。

矢作俊彦の小説がもともと,失われたヨコハマを希求する人物を描いたものであることからして—―後に,矢作俊彦はそれを「ここではないどこか」と定義して,日活貼付撮影所のセットのなかでのヨコハマというように,より抽象化するのだけれど,ここで語られる「故郷喪失者を描いたドラマ」という括りが面白かった。

1980年代半ばには「エクスパトリエートたちのエリック・ドルフィー」を書き,「ここではないどこかへ」を経て,『ららら科學の子』は,ハイマート・ロスばかりの物語をしてまとめられた。『傷だらけの天使-魔都に天使のハンマーを』が刊行されたとき,だから,矢作俊彦の読者の多くは,その物語を『ららら科學の子』の嫡子のようにとらえた。

やっかいなのは,そのような文脈で矢作俊彦の小説を読み進めていくと,ハイマート・ロスが初手から二手にわかれていることに気づかされることだ。つまり,もう一方で,J,傑の名で登場する「彼」,『引擎』の「彼女」のように,故郷と呼べる場所をもたない出自のキャラクターがまた,ここを批評的に描くなかで登場するのである。さらにいうならば,ここではなく,彼の地での彼/彼女の物語も含めるとなると,ニューヨークのゴロウ・スギウラ,パリの辻潤はじめ,矢作俊彦の小説のほとんどにハイマート・ロスは影を落としている。

4/1

Webに文字を留めるようになって20年になる。定期的にこの時期に同じことを書いているような気がするものの,最初の数年は,留めた文章を記憶していて,いつか全体として形にするようなイメージがあった気がする。固有名詞でひっかけて,その固有名詞とは一個人の記憶でしかつながらないことに面白さを感じるような,それは全体だったはずだ。

今日のことは書かないと釘をさしていたのは,たぶんそんな全体を引き摺っていたからなのだ。

その後,まったくの日記になり(それはiMacのOSバージョンではClover Diaryが動かせなくなったころのことで,Windowsのフリーソフトに鞍替えした1,2年の間のことだ),WordPressを使うようになってからのこの10年は,日記だったり,思い出したことだったりが混在する記録に変わっていった。最初はMovable Typeに移行する予定だったのだけれど,今になってみるとWordPressに移ってよかった。会社のサイトでも使っているのはWordPressだし。

いまだに固有名詞でひっかけると,パーソナルな記憶とつながるものにあこがれることはあるけれど,それはたぶん索引ではなくて,タグでひっかけるようなイメージになるのだろう。タグを索引のように一覧にすればよいのだけれど,当初,イメージしていたものとはどこか違うのだ。

古本フリマ

2014年5月,みちくさ市にはじめて参加した。それから5年間,ときどきの古本フリマは何かわからないものの,どこか区切りのようにして立ち現れた気がする。

新型コロナ禍で4年間,みちくさ市は休止して,この4月に復活する。応募日当日,メールを書いて準備して投函,なんとか場所を確保することができた。参加してきた5年間と休止の4年間。不思議と休止の4年間が短く感じるのは再開が決まったからなのかもしれない。

みちくさ市以外は,宇都宮の古本フリマに参加したくらいで,たぶん他には参加していないはずだ。みちくさ市絡みで,渋谷LOFT9の古本市に参加したことはあったものの。

この前,事務所で地味に開いた古本フリマで,初日早々に「nice things.」が2冊,伊丹十三の文庫が別々の人に2冊売れたような驚きがおもしろくて,たぶん古本フリマに参加しているのだと思う。”よい本”とは決して言うつもりはなく(たぶん何があっても自分が選んだ本を”よい本”と言う日はこないだろう),”本好き”などとも口がどうなっても言わないけれど,それでも自分で選んだ本が他の人に選ばれるたのしさを伝えることはできる。

4月のみちくさ市がたのしみだ。

痛飲

サワディが改装するとのことで,週末,昌己と待ち合わせて夕飯をとりにいった。

四半世紀前,このあたりはタイ料理店よりもミャンマー料理店の方が多い場所だった。妙正寺川沿いには数軒のミャンマー料理屋が開いていた。住人でなければ立ち寄る場所はなさそうな駅前の様子を,その10年くらい前から通り過ぎただけだ。住んでみると,居心地は決して悪くない。

ミャンマー料理店よりもサワディに先に入ったと思う。20世紀の終わり頃,タイ料理店で飲む機会が増えた昌己を誘って,急な階段を上っていたのだろう。昔の「東京おとなクラブ」の情報によると80年代半ばくらいはレンタルビデオ店が入っていた場所にサワディはある。

当時は,おばさんがひとりで店を営んでいて,入ってから出るまで,他にひとりも客が入ってこないときはめずらしくなかった。日によって味にばらつきはあったような気がするけれど,パッタイを美味いと思ったのはサワディで食べてからのはずだ。タマリンドの実をもらい,あのソースがこの実由来であることを教えてもらった。

6,7年後,おばさんはタイに帰国することになった。当時の私たちとおばさんの年齢差は実のところ,大したことがないことを週末に出かけた帰りに知った。当時,今の私たちにいくつか歳を加えたくらいの年齢だったのだそうだ。

かなりコストパフォーマンスがよかったサワディは,このところ,少しコストパフォーマンスがよい店に変わった。変わる前は,ハイボールなどが1杯200円代で頼めたのだ。今は倍くらいになったので,その日はワインをボトルで頼み飲んだ。帰り際に,お店の人と昔話をしばらくして,線路を渡った先にできた焼き鳥屋に流れた。二人でワインを1本空けた後だというにもかかわらず,そこで1時間以上,あれこれと話をした。もちろん,何の話をしたのかすっかり忘れている。

おとなしく仕事をした一日が過ぎ,日曜日の夜,築地で打ち合わせがあった。私を含めて4名で,日曜日の築地で営業している貴重な居酒屋で,3時間半くらい飲んだ。打ち合わせをざっと済ませて,それでも最初はビールを少しずつ飲んだ。ところが途中からワインをボトルで頼み,それでも4人いるから大したことはないだろうと踏んでいたものの,なかなかのピッチですすむ。

デキャンタを追加して,テーブルをきれいにして店を出たときにはすっかり酔っぱらってしまった。週末に痛飲が続いたのは久しぶりだった。

第二次マンガ革命史

少し前まで中川右介『第二次マンガ革命史—劇画と青年コミックの誕生』(双葉社)を読んでいた。私が生まれる前のマンガの歴史を,何人かのマンガ家を通して描くグラフィティ形式のノンフィクションで,こうした構成の本が昔から好きだ。

以前,著者の別の著作(『サブカル興亡史』)を読んだときには,サブカルは生まれる前のことに関する記述になると途端,軋むような表現になると思ったので,本書を最後まで面白く読めたのが不思議だった。それはたぶん私が同時代を体験していないからで,私よりひとまわり上の世代が読むと,どう感じるのだろう。

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